ホワイトヘッドの哲学
有機体の哲学(philosophy of organism)と称している
人間をも含めた宇宙全体に及ぶ壮大なコスモロジー(宇宙論)を展開
しかし、「有機体」のイメージでさえもまだ十分に知られていない。
主著『過程と実在』(一九二七年)の書名が示すように、それは、人間と世界を含めての、相互浸透、全体的進動の哲学であるといえばよいであろうか。
カントでもいまだ十分には止揚しつくさなかった理性論と経験論の二元対立、あるいはいっそう一般的に観念論と実在論、唯心論と唯物論等々の二元対立は、ホワイトヘッドの哲学においては無縁である。
カントに先立つロックやヒュームのイギリス古典経験論の「経験は心理学的な要素を多分に有し、それはカントの超越論的哲学においてもなお残存している。他方、デカルトに発する大陸の理性論はカントにとりいれられ、その哲学の根幹となり、範疇論となって展開する。カントは、これをもって人間的認識(経験)の構造を解明してみせたのである。しかし、なぜ範疇が十二であるか、またその範疇構成は、『純粋理性批判』の演繹論での苦渋に満ちた努力にもかかわらず、果たして客観的でありうるか、というような点は、いまだ十分に解明されたとはいえなかつた。
カントは、このように主観から世界へと出ていつたが、ホワイトヘッドは世界から主観へと入つていく。
その結果、ホワイトヘッド哲学には十や二十にとどまらない諸範疇の錯綜と、諸科学の最新の成果までふまえた概念構成とがあり、カントの残した二元性の問題を克服するとともに、確かな客観性の保証をそこから導出しょうとするのである。
形而上学の復権
ホワイトヘッドの立場は単なる科学合理主義であるのではない。
科学は、具体的な事態をしばしば誤った仕方で誤った方向へ抽象化する。「具体性を置き違える説謬」(fallcy of misplaced concreteness)のことを示している。
これに対して、形而上学はこれをその具体性のまま、すなわち「過程と実在」、あるいは「過程即実在」としてとらえる。
ホワイトヘツドは、科学の立場を十分認めながら、それが抽象的に陥ることを批判し、かえって形而上学に具体性をみる。
現実的実質
では、ホワイトヘッド形而上学は事態を具体的にとらえるとは、どのようなことであろうか。
まず「経験」の語を広義に用い、生物や無生物にいたるまでをも包摂する範疇の設定をおこなったことを、あげなければならない。
その結果、現実的実質(actual entity)という概念が提起される。
これは伝統的な意味での実体観を超え、現実的実質を現実的契機(actual occasion)とも呼ぶことでもわかるように、
実体を過程的に、あるいは出来事イヴェントとしてとらえるのである。このような過程ないし出来事はもとより因果的生起であるけれども、主体からする自己創造の営みが受動と能動とのはざまを縫って展開され、現実的実質としての人間がそこに介在している。
環境も自然もまた現実的実質であり、かかる現実的実質の働く「場」ともいうべきものがある。
そこで営まれる過程ないし出来事を包握(prehension)という。
包握は、プラグマティズムのデューイの哲学でいえば生活体と環境との相互作用に相当するであろう。
しかし、ホワイトヘッドのいう包握のほうがさらに包括的であり、かつ主体の側の自己創造の秘密にまで立ち入つて論じているといえる。
「場」での包握のさまざまなレベルによって概念的・個体的・社会的などの営為が生ずる。
永遠的対象
永遠的対象(eternal object)という新しい概念もつくられた。
それはプラトン的なイデアに近いと考えられるが、いかなる現実的実質にも必然的に関連づけられることなしに概念的に包握される実質を、永遠的対象と呼ぶのである。
それは純粋な可能性である(ただし複数)。
かかる永遠的対象のすべてを包握しているのが神である(包握の包握、神の原初的本性)。しかし、神もまた一つの現実的実質であり、自らを与件として、他の現実的実質の自己創造、包握過程へ提供する。これを神の現上態(superject)。という。神は現実的実質の過程即実在、その発展的具象化に寄与するのである。
そこで、「神」は原初的にして結果的であるということができる。
ホワイトヘッドはこの点を「世界」と相即させて、次のように定式化している(『過程と実在』第5篇第二章「神と世界」)。
(1)神が恒常的で世界が流動的であるというのは、世界が恒常的で神が流動的であるというのと同じく、真である。
It is as true to say that God is permanent and the World fluent, as that the World is permanent and God is fluent.
(2)神が一で世界が多であるというのは、世界が一で神が多であるというのと同じく、真である。
It is as true to say that God is one and the World many, as that the World is one and God many.
(3)世界と比べて神がすぐれて現実的であるというのは、神と比べて世界がすぐれて現実的であるというのと同じく、真である。
It is as true to say that, in comparison with the World, God is actual eminently, as that, in comparison with God, the World is actual eminently.
(4)神が世界に内在するというのは、世界が神に内在するというのと同じく、真である。
It is as true to say that the World is immanent in God, as that God is immanent in the World.
(5)神が世界を超越するというのは、世界が神を超越するというのと同じく、真である。
It is as true to say that God transcends the World, as that the World transcends God.
(6)神が世界を創造するというのは、世界が神を創造するというのと同じく、真である。
It is as true to say that God creates the World, as that the World creates God.
しかし、ここで注意しなければならないのは、それだからといつて、神と世界とは単純な互換概念ではないということである。神と世界とは「相互に逆に動く」のであるが、その逆の動き方とは、単純に互換的でないという意味で、次のように規定される。
「神ははじめから一である。神は多くの潜勢的形成の関連の原初的統一性である。過程において、神は結果的諸多性を獲得し、原初的性格はこうした諸多性をそれ自身の統一性へと吸収する。(これに対して)世界は原初的には多である。自然的有限性をともなつた多くの現実的契機である。過程において、それは結果的統一性を獲得する。そしてこの統一性は新たな契機であリ、原初的性格の諸多性へと吸収される」(同上)。
かくして、神は、世界が(まず)多にして(そして)一とみなされうるのとは逆の意味で、(まず)一にして(そして)多とみなされうるのである。「いっさいの宗教の基礎である宇宙論の主題は、永続的統一性へと移行する世界の力動的な努力の物語であり、そして世界の多様な努力を吸収することによって完成の目的を達成する神のヴィジョンの静的な威厳の物語である」(同上)。ホワイトヘッドの説く有機体の哲学は宗教の基礎としての宇宙論であることがわかる。すでに神についてのホワイトヘッドの見解には触れてあるが、宗教を主題とすにおいて、「宗教」はどのように論じられているであろうか。
宗教の形成
そこでは、神の概念について次の三形態をあげている。
(1)神は非人格的秩序で、世界はそれに適合するとみなす(東アジア的概念、仏教の〃法〃などか)。
(2)神は特定の人格的個的実在である(セム族的概念、キリスト教の神はこれに三位一体の考えを加える)。
(3)世界の実在性は神の実在性である(汎神論的概念、神即自然〔世界〕)。
第一の場合、神について語ることは世界について語ることである。第ニの場合、世界について語ることは神について語ることである。第二の場合、神について〃人格的〃〃実在者〃〃個別者〃〃現実的〃等々の説明語を付するが、それらは厳密に用いられなければならない。そのためには、形而上学が必要である。しかし、この場合の形而上学とは超越的.独創的なものではなく、「生起するいっさいのものの分析に不可欠なかかわりを持つ普遍的観念の発見を目指す学」である。ホワイトヘッドの神概念は、ただちにキリスト教のそれではない。むしろ神は現実的実質としてそれ自身のうちに悪の知を有しており、神でさえもその存立のためには他を必要とするのである(スピノザ流の神実体の否定)。
プロセス神学と西田哲学へのかかわり
ホワイトヘッド哲学は、その過程的包握の仕方、「神でさえ他を必要とする」考え方などによつて、ブロセス神学や仏教哲学、西田哲学との類似が指摘され、二十一世紀における東西哲学思想の対話.融合の状況に対して、有効な原理を提供する可能性を秘めている。