現代における社会問題と仏教とのかかわり

仏教社会倫理学構築への一試論

 

はじめに

1.キリスト教社会倫理について

2.集団とその中における個人との関係

3.個人倫理及び社会倫理に共通する倫理規範について

4.共業の思想について

5.立正佼成会の立場

参考文献

 

はじめに

 

現代における社会問題と仏教とのかかわりを考察する上で、研究の重要課題の一つに、社会問題に対して仏教はどのようなアプローチができるかという問題がある。新たな地球秩序の創造を考えるうえでも、いわゆる「地球的問題群」に対し、仏教的側面から、どのような貢献ができ、課題解決と秩序創造にいかに寄与することができるかという重要問題が横たわっている。

そこで、つぎのような問題意識が生じてくる。仏教思想に基づいた社会倫理学の構築は可能であろうか。このような疑問を呈する理由には、つぎのような事情も含まれている。キリスト教思想に基づいた社会倫理学はすでに百年あまりの歴史を有している。近代化にともない噴出してきた社会問題に対し、キリスト教の立場からどのような救済策を講ずることができるのか、その理論と実践の面からすでに数多くの著作が著されてきている。事実、著名な社会倫理学者として、アーネスト・トレルチ、カール・バルト、・ヨセフ・ロマドカ、ポールニァィリック、ウォルター.ラウシェンブッシュ、ラインホールド・二-バー、ジェームス・アダムス等数多く挙げることができる。

しかし、仏教の立場から論じた社会倫理に関する著作はほんの数えるほどしかない。日本仏教学会編『社会倫理と仏教の機能』という著作が出されているが、ここに収録されているほとんどの論文が文献学的考察に終始し、個人の社会生活上の倫理の領域からでていない。そこでは「社会倫理」の概念が明確に提起されておらず、その理解のないまま著されている感を拭い得ない。

西谷啓治の『現代社会の諸問題と宗教』は、宗教的観点から社会問題を扱った例外的な著作といえる。そこには、何故現代の仏教が現実の社会問題から乖離しているのかが鋭く解明されており、その弱点を超克するための仏教社会倫理に関する論説が展開されている。また最近出版された丸山照雄の『闘う仏教』も、仏教思想に基づく社会倫理のあり方を求めた著作である。このほかに、ロバート・キサラの『現代宗教と社会倫理』は、新宗教(天理教と佼成会)の福祉活動のあり方を中心に扱ったものである。

このように、仏教思想を正面に据えた形での社会倫理に関する著作は数えるほどしか出版されていない。

何故であろうか。仏教は、社会に対し無関心なのであろうか。仏教は、世間は虚仮として、執着してはならぬもの、そして世俗からの解脱こそを理想とし、目指すものであると理解され、社会に対して無関心であるかのような誤った印象を与えているが、仏教の真のあるべき姿はそうではないのではないか。事実、大乗仏教では「菩薩思想」が謡われ、一切衆生の救済が使命となっており、仏国土、常寂光土実現の思想も現存する。

しかしながら、仏教思想に基づく社会倫理の領域に属する著作はほんの数えるほどしか上梓されていない。それ故に、ここであらためて、仏教思想に基づく社会倫理に関する研究は可能であるかと問いかけてみる次第である。

この問いに対して解答を与えるためには、まず「社会倫理」とは一体何であるかを明確にすることから始める必要がある。

この拙論においては、キリスト教における社会倫理の捉え方をまず明らかにすることから始め、「社会倫理」とは何であるかを素描したい。その後に、仏教の菩薩思想と共業の思想を呈示し、これが仏教社会倫理の研究にとって鍵概念となることを示し、最後に「立正佼成会の平和活動」が仏教思想、とりわけ共業の思樹と法華経の菩薩思想

に基づいた、社会倫理の領域の課題に対する実践活動であることを明確にしたいと思う。

 

1.キリスト教社会倫理について

「社会倫理」とは、「個人倫理」に対応する概念である。私が初めてこの馴染みのない言葉に出会ったのは、アメリカ留学中の一九七八年に読んだ "Moral Man and Immoral Society” に於てである。この著作は、キリスト教社会倫理学者であるラインホールド二一バー(R. Niebuhr)によるものであるが、「個人倫理」と「社会倫理」を

明確に区分し、論を展開しているものである。

"Moral Man and Immoral Society”の一九六〇年度版の序文にも説明されているように(初版は一九三二年に出版されている)、この著書の主要なテーマは、個人の倫理と集団の倫理との間には基本的な差異があることを提示することであった。二ーバ-は、初版以来その後の二十八年間さまざまな著作を通して、このテーマを追及して詳述しできたわけであるが、この間の経験によってこのテーマの正しさの認識をより深くしたことが、この序文にも明記してある。

本書の中で、ニーバーは、個人の倫理的・社会的行動と社会集団(国家的、民族的、経済的とを問わず)のそれとは、はっきりとした相違があると提起する。この違いを認識することによってのみ、純粋な個人的倫理が通用しない、政策決定を含む、政治の領域における諸事象のあり様を説明することができるという。

個人倫理と社会倫理の相違について、二-バーは次のように解説している。

個人は倫理的である。それは、自分の利益だけでなく、他の人の利益をも考慮することができ、時には、他の人の利益を優先させることもできる、という意味においてである。また、個人は生まれつき他の人に対して同情、配慮する心も持っているからである。

しかし、一旦集団化されると、不可能ではないにしても、こうした個人の有する倫理的な特質が発揮されることも成就されることも困難となる。なぜかと言えば、集団化されると、衝動を抑制する理性は弱くなり、自らの集団を超越し、他の集団のニーズを理解する能力は鈍り、衰える。そのため集団のエゴは強化されることになる。

理性とか良心という個人の資質だけでは調御できないのが、集団行動である。集団の力は、帝国主義あるいは階級支配という形にしろ、どのような形をとるにしろ、弱者を抑圧し、搾取する結果をもたらすこととなる。

集団の倫理が個人の倫理より劣っている理由の一つとして、社会の凝集力を形作る自然の衝動を調御することができる、理性的な社会的力を構築することが困難であることがあげられる。社会の凝集力とは、個々人の利已的な衝動が複合された集団のエゴの現われでもあり、それによって共通の衝動に統合されたとき、ばらばらで表現するよりも、より生々しい表現をすることができ、より集約された効果をもたらすことができるのである。それぞれの集団は自己の利益、特権を守ろうとする。それ故、社会的対立は不可避となる。この対立において、力に対しては、力によってのみ挑戦できるのである。ここでいうカとは権力と同議であり、権力とは、「他人の行動に対して自分の意志を強制する可能性」(M・ウェーバー)である。気が進まなくても、かりに反対であっても、別の個人や集団がその意志や目的意図をその人に強制することである。どのようにしてある意志が強制されるのか、またいかにして他人を服従させることができるのか。つまり、どのように権力が強制されるのか、強制手段にその力を与えるのは

何かについては、ガルブレイスの『権力の解剖』に詳述されている。ここではその詳細については論述するつもりはない。しかし、権力とは、われわれとは関係の薄いものではなく、哲学的なものでも、また神秘的なものでもない。人間の果てしなき欲望のうちで最大なものは、権力に対するものであると言われている。

それ故、集団の関係は基本的には政治的なのである。それら集団の相互関係は、各集団の相対的な二―ズや要請の理性的、倫理的な評価によってというよりも、むしろ各集団が持っている権力の大きさの程度によって決められるのである。

現実には、理性的、倫理的な議論の影響力と権力による脅威の影響力を明確に量ることはできない。それ故、対立解消の方法として、理性的な側面が過大評価されがちで、隠れた脅威としての権力は見逃してしまいがちである。

逆説的ではあるが、それ故にこそ、社会に倫理的な目標を実現し、「社会の善き、.かつ正しき秩序の形成」を約束する、政治的手段のあるべき姿を求めなければならないのである。これは社会倫理学の重要課題の一つである。

ニーバーは、社会にとってもっとも崇高な倫理的理想は正義であると明言する。その正義の目的は機会均等を求めることにあるとする。そして正義の実現のためには、自己主張、抵抗、強制、あるいは敵意さえ手段として使用せざるを得ないとも主張している。

ニーバーは、個人における倫理的理想とは、「無私」(unselfishness)であるとする。そして宗教倫理の理想として「公平無私」(disinterest)をあげる。これら社会と個人の二つの倫理基準は相互に相容れないものではないが、調和させるのは非常に難しいものである。この「無私」を理想とする宗教倫理はともすると、他人の不当な自己主張を黙認し、あるいは助長してしまうことになることがある。集団化されればされるほど、集団の利已的な衝動は強まる。それ故、社会的な統制(social control)が試みられるわけであるが、それは集団間の紛争につながっていく。

理性的な倫理は、ある種の実利主義(utilitarianism)になる。人間の行為を社会的な観点から捉え、一般的に共通する善および社会全体の調和を最終的な基準とするからである。この観点からは、利已的な衝動も、利他的な衝動も、同様に是認されている。しかし、ニーバーは、これは現実的ではないとする。

前述したように、政治的な倫理は、正義の実現を理想として、あらゆる手段を用いるのである。そのうえ、集団と集団との関わりにおいては、その集団が考える正義と他の集団の正義が一致することは希である。これまでの国家間の歴史を見てみれば、それは一目瞭然な、否定できない事実である。人間集団の利已性は不可避なものと認めざるを得ない。それ故、集団間の紛争は、倫理的、理性的な説得に、強制的な手段方法が加えられてこそ効果的なものとなるのである。

時代は、個人倫理の理想の実現を幻想であると認識することを迫っているのである。そして、人間の集団生活において、完全な正義が実現されると考えることは、幻想の中の幻想である。逆説的ではあるが、理性の管理のもとで、その幻想を断ち切らねばならないとする。

これまでの説明で明らかなように、二―バーにおける社会倫理とは、個人レベルの倫理とは明確に次元をことにする社会集団の倫理であり、集団関係は、権力的要因が主であり、個人レベルでの良心、あるいは理性的、倫理的な要因は、従であることを明確に認識し、そして、完全な社会正義の実現は幻想であることを、理性的に直視することを要請するものである。

今日、「社会倫理」を要約的に説明するとすれば、社会倫理とは「人間の社会的共同生活から派生する問題を取り扱う部門であり……そこでの権力に対してわれわれに責任のある社会的制度のもとでの、またそれを手だてとする仲間への正しい行動規定」とするのがもっとも一般的であろう。

小野健知は、『社会倫理の課題』において、その集団として企業共同体を取り上げ社会倫理を論じる。そして最終章に、「社会倫理とは何か」、そして「社会倫理が何故必要とされるのか」を簡潔に表現している。

「ここで問題とすべきは、法的人格者としての権利義務が生じている組織体にせよ、法人格のない社団にせよ、共に構成員に対しても、また対外的な社会関係においても、ある種の人格性を帯びた行為様式をともなって振る舞っていることである。集団が一個の人格性を帯びた行動をするのであるから、確かに個人の行為とは異なる側面が多々生ずるものではある。しかし、対外行為としては、個人に行為規範が要請されるのと同じく、集団に対しても、集団としての行為規範が要請されてくるのである。この行為規範があるところに、企業倫理が生まれ、広義の社会倫理が問われるのである。

社会構造が巨大化し複雑になって、しかも迅速な行為が組織集団に対して要求されてくる中で、余りにも単集団が独自性を強調して、排他的に利得の追求に窮々として社会全体の繁栄を考慮しなくなった時こそ、逆に社会正義が関心を呼び、社会倫理が大きな社会問題としてクローズアップされてくるのである。」(222頁)

細川道弘は『キリスト教社会倫理の現代的視点』の中で、キリスト教においては「キリスト教社会倫理にあっては、社会の善きかつ正しき秩序の形成にキリスト教思想はいかなる寄与をなしうるかという問題を取り扱う」とする理解も根強く残っていると指摘されている。

. ニーバーの所論に従えば、集団と集団との関係を理性の眼で直視し、いかに機会均等を保障することができる社会正義を実現させていくか、そしてこの実現の過程においてどこまで現実に可能であるのかをよく見極め、宗教的観点から、どのような貢献が為され得るのかを研究することが、「宗教社会倫理学」の課題と目的であるということになる。

ここでいう集団とは、一つの運命共同体を意味するものと解釈できる。運命共同体とは、地球的規模で言えば、「宇宙船地球号」であり、国際社会においては国連を始めとする国際的な連合体が考えられる。国家も典型的な運命共同体である。これに加え、国内のさまざまな組織や集団も運命共同体である。こうした意味では、社会倫理学の対象はこうした運命共同体すべてが含まれることになる。

 

2.集団とその中における個人との関係

集団と集団との関係のあり方と同時に探究されなければならないものは、集団とそれに所属する個人との関係、集団内での個人と個人の関係のあり方も、社会倫理の課題とすべきであると思われる。

なぜならば、集団内では、地位とそれに伴う役割規定が、人問関係を統御する。それは縦の系列であり、人間関係は、基本的に上下関係となる。組織内での役務は、組織の必要に応じて変容し、その個人の資質に応じたものではない。個人は入れ替え可能であり、まさしく機械の歯車のごとくである。ここで展開されているのは、機械的な人間関係である。組織内における人事のあり方と、職場での人間関係のあり方も、社会倫理学にとっての緊急課題である。ここでの機械的な人間関係をいかに人間らしさのある関わりをもたらすことができるのかについての研究が必要とされる。

社会倫理とは、こうした運命共同体としての集団及びそこに所属する人間に関わる倫理であり、社会倫理学とは、これについての記述的及び規範的な学問である。このような文脈において、仏教社会倫理とは仏教学的基礎付けを有した社会倫理であり、仏教社会倫理学とはその学的体系であるということができる。

 

3.個人倫理及び社会倫理に共通する倫理規範について

こうした文脈において、国際人権基準は特殊な位置を占めているように思われる。つまり、国際社会の組織体である国連が採択してきた一連の人権基準は、個人倫理と社会倫理をともに包括するものであるということができる。

ニーバーの所言に従えば、個人倫理と社会倫理とは次元を異にするものであるが、規範的に捉えてみれば、それらは包括的に捉えることができるものでもある。

組織は、それ自体の凝集力によって特有の文化を形成する。それが、その組織の構成員を束縛するものとなる。この組織文化や行動様式を統制する力が、国際人権基準に適合しているかどうかが問われ、吟味される時代が到来している。これは個人にも同様に適用されるものである。

民主主義と自由市場による資本主義経済のあり方も手放しで受け入れられるものではない。民主主義には、多数決原理による少数者の人権抑圧の可能性は絶えずはらんでいる。自由主義経済にしても、利潤追求、金儲け主義に陥り、人間の物象化をもたらし、非人間化の過程を生み出すことは既に指摘されている。そして、大量生産・大量

消費.大量廃棄の連鎖が地球環境を破壊し、人間自身の生命を脅かすものとなっている。

現在の経済原理としての利潤追求が、利他主義に転換されないかぎり、より人間らしく生きていける集団作りは不可能であると思われる。その意味において、大乗仏教で言うところの「菩薩思想」、すなわち自己個人の救いよりも先ず他者を救わんとする利他の思想が集団行為の基準となり得るかが、仏教社会倫理学の構築の重要な課題として研究されねばならない。

近代資本主義の原理である営利欲が個人なり集団の社会行動の原理となっている現代において、少欲知足に基づく菩薩行という原理がそれを転換することができるのか。これが人類の、ひいては地球の死命を制する課題である。

 

4.共業の思想について

仏教思想において、社会倫理を考えるうえで鍵概念となるものに、この菩薩の思想に加えて、共業の思想がある。

共業の思想は、個人の行為とその報いを説明する個人業(不共業)を越えて、社会的集団の行為とその報いの原理を説くものである。.

この拙論においては、論蔵の一つである『大乗阿毘達磨集論』を取り上げ、共業の考察を進めたい。

共業の思想が扱われているのは、無著が『楡伽論』の教義を再組織して大乗の論蔵とした『大乗阿毘達磨集論』においてである。

ここでは、多少長きにわたるが、まず雲井昭善編『業思想研究』における第七章「共業と不共業」の所論を通して、不共業および共業の意味内容を理解することにする。

 

「阿毘達磨仏教は、業に関して共、不共の二業を立てる。前者は、多くの生物が共通に共受する業で、後者は、共通に共受しない業である。前者は、山河大地、国土、環境一仏教術語でいう器世間」のような、多くの生物に共通する果報を引き起こすから共業であり、後者は、個々の生物(仏教術語でいう有情世間)に個有の果報を引き起こす業、したがって個人個人の業(不共業)をいう。

元来、業は既に述べた如く、その建前としてはく自業有得>であり、偶々の人問のなしわざの果報は個々の人間が受けるわけであるから、業は個人的なものである。したがって、甲が或る業をなしたのに対して、乙も甲と同じ異熟果を受ける道理はないのである。そのことは、既に述べた業に関する種々の理解から、当然、導き出されよう。

解脱をめざす宗教的人間が、有情の生存をあらしめる迷いの繋縛である業煩悩を脱皮しようとする場合、その歩みは、有情世間の、.しかも個々の人間の問題との関わりを問うものであったから。逆に言えば、仏教において人間を問う場合、衆生世間、有情世間が国土世間、器世間よりも多く関わっていた、ということである。換言すれば、『業』は私個人の立場、すなわち自らのなしわざであって他人と共有するものではない(不共業)。したがって、他と共有して受ける共有物(器世間)、すなわち共業を問うことが少ないわけである。以上が業を問題とする場合の一応の建前ではあるが、果たして、現実の問題としてそうは言えるだろうか。

なる程、自らのなした善悪業は、その人の身の上に果報としてあらわれる。もしこの原則が崩れるならば、『諸悪臭作。衆善奉行』とする仏教の基本的立場がなくなるに違いない。且又、社会道徳を根底から揺り動かすことにならざるをえない。要は、善悪業報の業論は、あくまで宗教的倫理的意味をもつものであったことを、忘れてはならない。しかし、一人の行業はその人個人の行業に限られるであろうか。一人の行業は、善であれ悪であれ、社会的善悪の公共性を以て問われることは論をまたない。特に現代社会のように、人間の行為が社会性をもって問われるとき、仏教の業が有情世間の、それ故に不共業をのみ問うていた、とは言えないことは確かである。にもかかわらず、仏教の業が有情世間を問うて器世間をあまり問わなかった、という事実を、ここに再確認する中で再検討しなければならない。

率直に言って、宗教としての仏教は、器世間に対するアプローチの仕方が足りなかった。阿毘達磨の宇宙論は、世界の構造について言及していた(『倶舎論』世間品)としても、宗教としての仏教が、この器世間にどう関わるかについては、深く立ち入った論説がみられないことは確かである。そのことは、有情世間への考察が器世間へのそれより重視されたことの証左である。現代の仏教が、対社会性、特に国土、環境に対して積極的な意見を提供できない理由の一つは、まさにこの点にあったと言っても過言ではない。しかし、業の本義を社会性の中で追求するとき、われわれは、不共業が仏教の業だとは言っておれないことに気づく。そのことは、今日言われる環境汚染、複合汚染の元兇が、人間の行為に深く関わっていたことを意味している。業の本義が〈自業自得〉の論理に支えられた背景には、個人個人の行為に対する責任、道徳観があった。このことは、社会に対してより一層問われる現代ではある。

業と社会性との関わりを説く資料として、『大乗阿毘達磨集論』巻第四に『如契経説。有共業。有不共業。云何共業。共業令話器世間種極差別。云何不共業。苦業能合有情世間種種差別。或亦有業。令諸有情展転増上。由比業力一諸有情更互相望為増上縁。以彼互有増上方故。亦名共業』

上の一経は、『倶舎論』巻第六の『非有情数(一器世間)も亦、業従り生ずるに、何ぞ異熟に非ざるや。共に有するものなるを以ての敵なり。謂わく、余〔人〕も亦、能く是の如く受用すればなり。〔黙るに〕夫の異熟果は、必ず能く共に受用する義有ること無し。余〔人〕が業を造りて余〔人〕が断れによって異熟果を受くべきにあらざればなり。』

『其の増上乗も亦、業の所生なるに何ぞ共に受くることを得るや』

『共業より生ずるが故なり』

という一文に関係する。その意趣は、業は必ず自ら造って自らがその果報を受ける(異熟果)のであるから、甲の人が造って甲以外の人が果を受ける道理はない。これに反して、器世間は、衆生の各業が共同して作ったものであるから、その結果は衆生一般に共通するものである。したがって異熟とは言えないのである。いま、前出の『大乗阿毘達磨集論』の一文(『大正蔵経』第三十一巻、六七九頁中)は、『以彼互有増上方故、亦名共業』とあって、個人の業は不共業でありつつも、衆生が互いに協力して共業をなすとしている点である。われわれは、ここに業の社会性をみることができる。

業が人間の実存と関わっていたことは、人間が行為なくして一日たりとも存在できない、とする『ギーター』詩の通りである。われわれの日常生活は、『業』を軸として廻転している。この軸が、人間の生存の深部にあって音もなく廻転する。その限りにおいて、人間の生存は、常に実存的意味を以て問われることになる。しかも、その行業は、ただに一個人の行為にとどまらないことは、上述の所論によって明らかとなった。してみれば、この世界(環境を含めて)は、常に『業』という大きな機軸によって廻転していたと言って過言ではない。

仏教は、確かに個々人の解脱を追求する。それは、宗教としての仏教の基本的立場である。しかし、縁起説は、有情の生存にのみ関わるものではなくてすべての生存たとえば人間と社会、環境との相互依存関係をも問うていた。大乗仏教思想が樹立した法界縁起、無尽縁起は、時問的縦の関わりから横への空間的広がりを以て問われる。

ここにおいて、仏教の業思想は、もはや個々の、それ故に有情世界内の異熟の因果を問うだけでなく、社会との関わりにおいて、それ故に共業が問われていたと言わなければならない。」(六〇頁)

 

この所論において、人間個々の業を、共業という視点から改めて捉え直し、研究する必要が明確に提示されている。これまでの仏教のあり方は、業について、個人業としての側面のみを強調し、その共業性を研究することをないがしろにする傾向が強かった。共業と共果、殊に環境問題が問われ、「地球的問題群」に直面する人類にとって、個人の行為を共業共果の視点から捉え直し、個人の行為に対する社会的責任を自覚させ、そして集団の業、行為のあり方について、あるべき姿について提示し、殊に政治経済の領域に関わる諸問題について、仏教的観点から方向を指し示すことは、必要不可欠であると、言わねばならない。ややもすれば個人的、内面的宗教に堕しやすい信仰を、社会的、政治的、経済的問題との関わりで把握することを可能にする仏教社会倫理学の構築は、現代の仏教者に突き付けられた最重要課題の一つである。

 

5.立正佼成会の立場

立正佼成会は、宗教教団として個と社会の救済をもたらすことを使命とするものであり、それは後に掲げる「会員綱領」にも明確にうたわれている。」こうした意味において、立正佼成会が国際的及び国内的な政治・経済等の諸問題およびそれについての諸政策について、その是非を問い、真正なる仏教的観点による主張を提示していくこと

は、本会の社会的使命とそして社会的に要請されているものである。

立正佼成会の目的は、「法華三部経」を所依の経典として布教を推進することにより、人間のこころを根本から改めることを通して、社会全体、世界全体を変えていき、人間全体の幸せ、世界の平和を成就することにある。この精神は、次の「会員綱領」に如実に示されている。

「立正佼成会会員は、仏教の本質的救われ方を認識し、在家仏教の精神に立脚して、人格完成の目的を達成するため、信仰を基盤とした行学二道の研修に励み、多くの人々を導きつつ、自己の練成に努め、家庭・社会・国家・世界の平和境建設のため、菩薩行に挺身することを期す。」

この「会員綱領」において、立正佼成会の究極の目的は、全人類を幸せにし、全世界を平和境と化することにあり、そのためには、先ず、人間の心を変えていくことが大事なことであることが明確にうたわれている。このアプローチの方法は「心から拡がっていく平和」と言われる。これと同時に、「形から推し進める平和」の不可欠さも認識されている。この形から推し進める平和の問題は、これまでは、国際関係の分野において国際秩序の問題として取り扱われてきている。しかし、地球環境が焦眉の急なる課題として現出してきている現代的文脈の中では、世界平和の問題は「新たな地球秩序の創造」という国境を越えた概念で考察されるべきである。世界平和への具体的条件は、いかに公正で、かつ自然との調和を兼ね備えた地球秩序を形成するかにかかっている。

庭野日敬開祖は、『平和への道』の中で「平和を実現するためには、人の心を変えていかねばならない1これは根本の大道であり、絶対欠くことのできない大事です。かといって、形の世界に現れる政治・外交・経済.文化といった面を、そのままに放っておいていい、というわけではありません。こうした現実の世界についても、具体的な目標を持ち、具体的プランを立てて、一歩一歩確実に人類の福祉と平和を推し進めていかなければなりません」(五三頁)と「内からの平和」と同時に、「外からの平和」、「形からの平和」づくりが、車の両輪のごとく必要不可欠なものであることを述べている。

この後者のアプローチにおいて、共業の思想が基本的な概念を形成している。ここで、立正佼成会における共業の考え方を、庭野開祖の『法話選集』における開祖自身の解説から考察してみたい。

(1)「そうした時代に生まれた共業(人々が共同して善悪の行為を行い、それぞれ各人が共同の苦楽の果報を受ける。そうした共同の行為と責任)があるのです。」(昭和3710佼成新聞)

(2)「仏教の言葉で共業と言いますが、私達は今日のような時代に一緒に生まれ合わせてきました。その同じ業を持っていることに対して使命を感じ、その使命に従って行じさせていただくことから、多くの信者さん達がどしどし、後に続いてくださるのです。」(昭和4612『求道』)

(3)「真の平和を築く礎は、人間の心の中にあります。人間の争い、そこから生じる悩み、悲しみ一それらを人間ひとりひとりの共業と観じて、平和への大道を歩んでいく人それを法華経では“八万の大士“と呼んでいます。

それはとりもなおさず、仏弟子である私達ひとりひとりなのです。」一昭和473佼成新聞一

(4)「みんなと一緒に心を清め、みんなと一緒に行いを正し、みんなと一緒に救われることを目ざさなければ・人類は共倒れになることは必至です。どうか、不共業(個人業)とともに、共業(社会業)というものにも、つらつら思いをいたし、善き業をつくるために精一杯の努力を尽くしていただきたいものです。」(昭和4711『佼成』)

(5)「ところが、産業革命以後、社会全体を見る目が開け、種々の社会調査が行われるようになってから、そうした“脱落”の原因を個人ばかりに押しつけるのは不当であり、社会全体にも責任があるということが実証的にわかってきました。仏教では、はやくからそのことを説き個人が作った業(不共業)ばかりでなく、社会全体が作った業(共業)というものがあることを教えているのですが、社会的視野が狭かった時代の凡夫は、どうしても不共業のほうばかりが目につき、共業というものを見忘れていたのでした。」(昭和4810『佼成』)

(6)「人間の業は、身で為す行為だけでなく、口に出す言葉も、心の中で思う考えも、みんなその中には入りますし、そのうえたくさんの人々がつくる社会的な業-人間が身・口・意につくる業も、たくさん集まれば社会的な業、すなわち〈共業〉というものになります-その共業も絡んできますので、その働きは非常に複雑微妙であって、どの原因がどの結果を生んだのか、つかみ難いことが多いのです。」一昭和5215『躍進』)

(7)「これは社会のすべての人間の「共業」であり、すべての人間が責任を感じ、その改善に努力しなければならない大間題であります。」(昭和535『佼成』)

(8)「ひとりの善因善果の道理が、社会が作りだす悪因悪果の共業によって踏み潰されないためにも、明るい社会づくり運動が大切なのです。」(『法話選集』別巻)

 

これらの一連の解説を一読すれば、先に雲井編『業思想研究』によって指摘されていたように、これまでの仏教において欠落していた共業の観点が明確な形で取り上げられ、社会問題への責任が共業の思想によって把握されていることが理解される。この共業の自覚と菩薩行の展開の両者によって新たな地球秩序の創造に対して、仏教徒としていかに貢献し得るかというその方法を今後明らかにしていくことが、仏教社会倫理学、さらに限定して言えば、佼成社会倫理学の構築につながることとなる。こうした観点から言うならば、庭野日敬開祖の『平和への道』は、立正佼成会の社会倫理に関する基本的なテキストであるということができると思われる。

 

参考文献

R.Niebhur, Moral Man and Immoral Society, 1960

W.Rauschenbush, The Social Teaching of Jesus, Norwood Edition, 1977

細川道弘著『キリスト教社会倫理の現代的視点』新教出版社一九七七年

小野健知著『社会倫理の課題』福村出版社一九七八年

西谷啓治著『現代社会の諸問題と宗教』法蔵館一九七八年

雲井照善編『業の研究』平楽寺書店一九七九年

堀孝彦『近代の社会倫理思想』青木書店一九八一二年

日本仏教学会編『社会倫理と仏教の機能』平楽寺書店一九八三年

庭野日敬『平和への道』佼成出版社一九七二年

中央学術研究所編閂鹿野日敬法話選集』佼成出版社一九八三年

ガルブレイス著『権力の解剖』日本経済新聞社一九八四年

宮崎茂樹編『解説国際人権規約』日本評論社一九九七年