III <意志>ーショーペンハウアーにおける意志 1992.08.22.
担当 大山
基本的な問いかけ
われわれの生活とは、生命とは、そして生存とは何であり、またそれ自体どのような意味を持つのであろうか。純粋に生としての生の価値は何であるのか。人間とは何か。そしてわれわれのいるこの世界とは一体何であろうか。
彼はこの問題を考えるうえで「意志」を根本においている。すなわち、現象の奥に潜む世界の本体を「意志」とし、われわれの認識しうる世界は「表象」であるとする。
『意志と表象としての世界』において、独自の哲学体系「意志形而上学」を展開している。
1 「意志」概念の確立
理性には限界があるとする。
→p41
表象の世界における「主観」と「客観」の関係について
主観はすべてを認識するが、なにびとからも認識されないもの
→p42
彼の形而上学における根拠づけの特徴
形而上学が本質を理解するときに、形而上学は、主観も客観世界をも越さないということ。
「身体」と「表象」との一致について
→p43
身体ー表象から切り離された「理性」の概念は、意味がなく、ただの空虚な抽象的思弁に過ぎない。表象の世界に根ざしてこそ、真の形而上学が形成されうる。
「理性」中心の哲学から、体験としての生からの直接的把握を試みる哲学、「生」の哲学を目指す。
それでは、世界が表象であり、現象とするならば、その本体は何か。
彼は、直観によってそれが「意志」であるとする。世界の根本原理であり宇宙全体の原理であるとする。
身体を通して認識する。身体こそ、直接意志を認識する媒介である。
身体の機能
→p45
二つの機能 表象と意志
身体は「意志の客体生」と名づけられ、「他の表象とは全く別の、全然異なった仕方で意識されてくる」と言い、それが「意志」であると結論している。
→p45
2 「意志」の客観化
「身体」と同様に、他の一切の事物も、自然界において姿形を変えた、つまり個別化した意志が現われたものである。
「意志」そのものは、現象のすべての形式から完全に独立した自由な存在であるが、姿形を変えていくことによって、現象形式として現われてくる。この形式は、「根拠律」において表現され、時間と空間の形式もそれに属する。
「根拠律」とは必然的な法則、つまり因果性の法則。
意志が適切な客体性を得るためには、意志が段階的に現われなければならないとする。
→p47
「意志の客観化の諸段階」という考え方は、「プラトンのいうイデア」に由来している。
「根拠律」によって現象するさまざまな形態は、「時間」と「空間」によって、成立可能であるとする。この「時間」と「空間」を「個体化の原理」と呼んでいる。
「意志の客観化の諸段階」では、現象相互に絶え間ない闘争が繰り広げられている。
「闘争」とは「意志にとっては欠かせない自己自身との相克の、表面化にほかならない」。
無生物、生物、そして人間へと段階をへて、意志は表現される。表象としての出現は、最初は具象的に、順次、理性的なもの、高位へと移行する。
認識を通して見えるようになった人間にどのような可能性があるか。
→p49
ここで「理性」は、無用の長物として考えられているのではなく、理性よりも優位な立場に意志があるとしている。
「認識」の機能、役割について。
→p50
認識は、単なる道具であり、手段である。
3 「意志」の肯定
世界は、生存への、盲目的、永久的闘争そのものである。
盲目的、一定の争うべき対象(目的)を持たない。そのため闘争には終わりがなく永久的である。またその闘争は、普遍的である。これが「意志の肯定」である。
人間の行為は、はっきりと意志を写しだす。行為する人は、意志する、意志する人は生命を意志する。意志とは、「生きんとする意志」と同じである。
ただし、誕生とか死とかは、意志そのものではなく、意志の現象に属している。意志の現象の形式、すなわち生命の形式ないし実在の形式は、ただ現在だけである。現在だけが、人間からけっして奪い取ることができない、人間の確実な財産である。
だからといって、生命が満足した存在であると言う結論は、錯覚である。
生命の肯定は、苦痛の肯定である。
→p52
意志を根本とする世界の実態は、苦悩であり、あらゆる生は、苦である。意志はいつも満たされずに不快と結びついており、苦痛こそが生における本来の姿である。
終わりに
「生きんとする意志」からの解放について
・芸術を通しての一時的な救済方法
・「意志の否定」を通しての救済方法ー宗教的な解脱の方法
世界の本体は「意志」であると直観し、意志自身の盲目的な不断な闘争によって起こる「苦悩」が、また世界であるというペシミズムを打ち立てる。そして、「人生は苦悩である」という命題を証明し、その解決方法を探っていったのが彼の哲学体系である。