いかにこのニヒリズムを超克するか。
ニヒリズムは意味の喪失。
空の思想とニヒリズムの相違について。
西谷啓治を参考に思索を深めていこう。
『宗教研究』292号ー日本の宗教学
「絶対無を論理的に表現するとは、現代文明が人間存在に対して提起している色々な問題を絶対無の立場から解こうと努力することに他ならない。もしこれらの問題がこの原理から解けることになるならば、仏教的無は一つの普遍性を持つことを証明したことになる。」p7
西田にとっての最大の関心事
「自然科学的な知性や世界像を承認した上でなお、われわれの真の自己(西田のいわゆる「直接なる心」)」というものがいかにして可能か。
西田哲学は大乗仏教の絶対無を歴史的世界の現場へ連れ出そうとする、生後者を持たない独自な思惟の実験だったのである。
西谷
西洋哲学との対決が、西田の場合よりも一層精緻で具体的になっている。
アリストテレス、プロティノス、アウグスチヌス、エックハルト、デカルト、ヘーゲル、後期シェーリング、ニィチェ、ベルグソン、ハイデッガー
エックハルト、ニィチェ、ハイデッガー
それぞれの仕方で、無という概念やニヒリズムを主題にしている。
「ニヒリズム」が中心となっている。
虚無感、死の問題、この現実の空虚さ(宗教組織の非人間的あり方)
死によって生の意味は否定されるか。
「人生や世界の無意味さや虚無感を克服する途であった宗教や形而上学の次元に、もう一度虚無が現われてきたということである。」p9
この虚無感、無意味さに対するはかない反抗として、耽溺がある。
近代化、組織化、物象化、無意味化。
現代の技術文明の基盤を襲っている不気味な問題性
宗教と科学との間に限界を定立するということではなくて、両者がともにそこに根ざすことができるような、一つの共通の基盤をいかにして発見するか。
科学的な知見を真理として全面的に受け入れながら、しかも宗教の見地を貫徹しうるような道の探究。
「二重写しの立場」、生死一如
空の概念の定義
龍樹
空の概念の定義ともいうべき文章が、すでに初期の仏教の経典(中阿合『小空経』)恒見られる。「何物かがそこに存在しないとき、それは何物かということでは空なのだ、とみる。しかもなおそこに何か余れるものが存在するとき、それこそは実在であると知る」(長尾雅人『中観と唯識』二九四ぺージ)。
「空」といつても何もないということではない。一切の物は自分特有の不変の性質、すなわち自性とか我をもつていない。空のこの意味が龍樹の主著『中論』において「縁起」の概念に具体化されたことは衆知のとおりである。
西谷は『根源的主体性の哲学』において、「われ在り」といふことの窮極の根底は底なきものである、吾々の生の根源には脚を著けるべき何ものも無いといふ所がある、寧ろ立脚すべき何ものも無い所に立脚する故に生も生なのである、そしてさういふ脱底の自覚から新しい主体性が宗教的知性と理性と自然的生とを一貫するものとして現れて来る。p3
空と自灯明・法灯明について
空とは拠り所がないことである。しかるにこの拠り所としての己、法とは何を意味しているのであろうか。脱底の自覚から生まれいずる、新しい主体性、これこそが自灯明ということである。
西谷の個人的経験という形で生まれたニヒリズムはやがて、西谷の哲学的思惟のうちで、技術文明の時代に生きる人間存在の諸問題のほとんどすべてを包括するような大きな問題にまで成長する。たとえば、マルキシズムの問題、道徳的退廃の問題、科学的世界像や科学的合理性の問題、テクノロジーの危険や人間の機械化の問題などはすべて、覆面したニヒリズムの問題であり、ニヒリズムにつながる、というのが西谷の見解である。西谷はつぎのように言う。「哲学以前と哲学とを通じて、私にとつての根本的な課題は、簡単に言へば、ニヒリズムを通してのニヒリズムの超克といふことであつた」(「私の哲学的発足点」『薯作集』第ニ十巻)。これぼかつてニィチェが歩いた戦場であるが、西谷はそのニィチェをも対象化するような仕方で、この戦場を歩くのである。ニヒリズムを超克する唯一の血路は、ニヒリズムを通過してその底をくぐる以外にはない、というのが西谷の考え方である。現代の技術文明の基盤を襲つている不気味な間題性は、いかなる既成の宗教的観念や哲学思想によつても、もはや解決できないくらい深淵的である、と西谷は考えている。かくして、大乗仏教のうちに用意されてある「空」もしくは「無」の概念が、そういう血路を摸索する思惟の場に提出されてくるのである。(p9)
私自身の根底にある、不信、生の無意味さ、虚無の問題である。まさに私自身の現在の心境はここに(p190-)示されている通りである。
ところで、初めに挙げたニヒリズムの間題は、今言つたやうな意朱での、つまり宗教において克服され得たやうなものとしての、絶望や虚無だげで盡きる間題なのでけない。ニヒリズムの問題は普通にいはれる意味での虚無の問題ではない。この区別は重要である。ニヒリズムとは、通常の虚無が克服される宗教の次元に、ないしはそれと等しい高さ(或いは深さ)の次元に、再び虚無が現はれたといふことである。言ひ換へれば、その次元の上で「対自的」になつて再現して来たやうな虚無の問題である。これは、強力な薬品の発見によってひとたび克服された細菌やヴィルスが、やがて抵抗性を具へて現はれて来たのに比較され得るかも知れない。ニヒリズムは、宗教に抗し得る立場の自覚を含んだ虚無、むしろ宗教否定の立場、しかも根拠づけを含んだ立場として登場して来た虚無である。そのことは、ニイチヱの「神は死んだ」といふ標語に端的に表示されてゐる。(p189)
それはともかく、ニヒリズムの場合には、生きていることの本質的な必然性は一応すべて見失はれる。即ち生の偶然化は頗る克服し難いものになる。生きているさなかに襲つてくる人生の無意床さの感じは、虚無(対自化した虚無)と等しく根の深い、根源性をもつたものになる。ニヒリズムは、倫理や宗教によつて克服され得るといふ以上に、それらでは包み切れない抵抗性をもつものとして、本質的に懐疑の性格を含んでいる。生きているさなかに、無意味の感を底から吹き上げるその虚無は、人生といふものの根拠への懐疑であり、それゆゑまた、人生に意味づげを試みるすべてのもの、特に倫理や宗教への懐疑である。その限り、ニヒリズムは本質的に哲学への方向を含んでいる。倫理と宗教の路線へ一足飛びに入る方向から逸れて、哲学へ迂回する方向である。もちろん、懐疑といつてもたとへばデカル卜の場合のやうに、すでに理論の領域に移された方法的懐疑といふやうなことではない。その含む苦しみは、思考における学者の苦労ではなくて、生きるといふこと自身における人間の苦脳である。そして何よりも、その懐疑は哲学以前のことである。ニヒリズムはその胚種形態においては、市井の婦人でも陥り得るものである。しかしその胚種形態においても、ニヒリズムは、すでにその本質において、またその含蓄する間題において、哲学への方向を含んでいる。少なくとも私自身は、さういふ哲学以前のニヒリズムから哲学をやるやうになつたのである。従つてその後の基本的な方向は、一つには、ニヒリズムの立場そのものの哲学的な展開の方向を辿るといふことであつた。二つには、倫理や宗教の諸問題を、哲学的ー批判的に究明することであつた。また第ニには、ニヒリズムを通してニヒリズム超克の道を求めるといふことであつた。そしてこの三筋の糸は当然一つに綯ひ合はさつてゐた。
いかにしてそれが可能であろうか。
生きているという現前の事実が自分自身で問題なく肯定できるということ。
そのためには、何故肯定できるのかという、根拠が、問題なく自分に明らかにされねばならない。また何の問題もなく生き得るということ。
根本的な矛盾の解決 自分の現存在の事実性と 現存在自身が問題化
自己存在そのものの確かさが疑いの淵に沈む。
ニヒリズムが超克されるということは、生きているということの本来の姿である直接の肯定性へ帰り得るということ。つまり、「ありのまま」に帰るということ。
やがてマルキシズムの間題や、科学との関係による文化の危機といふやうな世界的現象の問題などから、科学的な世界像、科学的な合理性、科学的知性など、科学といふものの本質に係はる事柄に次第に注意を引かれるやうになつた。それらの事柄は、西田先生や田邊元先生も早くから深くまた大きく問題にされていた事柄であつたが、私にはニイチ工などにおける近代ニヒリズムの間題も、根本においてそれらの事柄と深く連関しているやうに思はれた。宗教と科学との間の反発関係でも、その根底にニヒリズムの問題を潜めているといふのが私の考である。このやうにして、私が哲学に入る発足点であつたニヒリズムの問題は、間題としても次第に大きく成長し、殆んどあらゆる事象を包括するものにまでなつて来た。たとへば根元悪の問題でも、カン卜の場合のやうに宗教論の地平からだけでなく、シェリングの場合のやうにいつそう大きく包括的な地平から捉へる必要があり、すでに西田先生や田邊先生もその方向に深く徹底して行かれたが、私もニヒリズムの間題を踏まへつつ、その跡に隨つて考へたいと思つている。
そのニヒリズムをあらゆるものに係はる大きな間題と認めた思想家として、ニイチェのほかにハイデッガーが特に現在の私の問心を惹いているが、それらの人々の場合のやうに、ニヒリズムの超克といふ課題も、最も包括的かつ根源的な場から取り上げられねばならない。さきに、生きているといふこと本来の直接的な肯定性に帰るとか、「我あり」の元来の疑ひなさを回復するとか言つたこと、つまり「大疑」の解消した「ありのまま」といふことも、さういふ包括的かつ根源的な場に成り立つものでなければならない。現在の私は、さういふ場を求めて、結局、佛教で「空」といはれて来た立場に辿りついている。なぜさうならざるを得なかつたか、「空」の立場がどうしてニヒリズムの超克といふ意味をもつかについては、前に出た『宗教とは何か』(創文社)のうちで不充分ながら論述したつもりである。