<現代思想の潮流>

十九世紀から二十世紀へ種々の動向

・ヘーゲル主義および形而上学的思弁への批判ないし対決

多かれ少なかれヘーゲル主義および形而上学的思弁への批判ないし対決の方向。

十九世紀の後半

形而上学に対する批判の動き

コントの思想に典型的にみられるような実証主義(positivism)の傾向である。

経験的に実証される事実だけを正しい認識の源泉として認めようとする態度

自然科学が重視され、哲学は自然科学的認識を基準にして理解され評価されることになる。

経験論の立場で帰納論理、功利主義を説いたJS.ミル、

進化論哲学のスペンサー、

感覚論を主張するマッハ

 

・実証主義的哲学の克服

実証主義的な態度のゆきすぎに対する批判から、実証主義を乗り越えようとする動きが出てくる。

例えば、数学や論理学における理念的な対象を心理学的な立場で心理作用の所産として説明したり、また人間の心的.社会的生活をも自然的事物の運動のごとくに取り扱おうとするようなやり方を克服しょうとするのが、その動向である。

 

二十世紀の哲学

狭い実証主義的哲学の克服の動きからはじまる

大まかな傾向

一方には、反心理主義的な立場で認識・真理の問題を考える論理主義的な、あるいは本質主義的な方向ー新カント主義

 Q 論理主義 本質主義

他方には、生や現実の問題を追求する実践的な、あるいは非合理主義的な方向がある。ー生の哲学

 

新カント主義は、「カントに帰れ」というリープマンの言葉を合言葉として、カノトに依拠しつつ認識の問題を新たに考え直そうとする「新カント学派」の哲学である。

新カント学派

 前期 多分に心理主義的傾向

 後期 論理主義的傾向が強い

     代表的な二派

     「マールブルク学派」

     「西南ドイツ学派(バーデン学派)」

カント哲学には数学.自然科学の基礎づけと、独断的形而上学の批判および新たな形而上学の確立という二面がある

マールブルク学派の特徴は、カントを前者の面から理解し、そこから数学・自然科学をあらゆる認識の原型と考えてその認識論的基礎づけ

代表者 コーエン カントの〈直観ー思惟〉という二元的考え方に対して、直観によることなく思惟が自ら科学の対象を産出するのだという思惟一元論をとり、その観念論的立場で科学の概念構成の論理的解明をおこなうことを哲学の根本的な仕事と考えた。

ナートルブもこの派の代表者で同様の立場に立っていたが、のちには教育哲学や実践哲学へと関心が移っていった。

また、カッシーラー 『象徴形式の哲学』で世界了解の形式を考察

ニコライ・ハルトマン 現象学の影響を受け、さらに批判的存在論を提唱

はじめはマールブルク学派に属していたが、そこから離れていつた人たちである。

西南ドイツ学派は、自然科学と対等に歴史科学ないし文化科学も学として成立することを認める。

ヴィンデルバントは、一般的法則の発見を目指す「法則定立学」(自然科学に対応する)と一回的な個別的現実を記述する「個性記述学」(文化科学に対応する)とを区別して、文化科学(彼の用語では歴史科学)の独自性を基礎づけようとした。そこから「文化価値」の問題も出てくる。

この派の大成者リッケルトは、そのような自然科学ー文化科学の区別を明確化した。

 

生の哲学

十九世紀の後半から大きな思想潮流となった非合理主義的な哲学。

一つの総称であって、個々の哲学者によってその思想内容は種々さまざまである。

共通の傾向としていえるのは、「生」(人間の生の場合もあり、世界全体としての生の場合もある)を究極の実在とみて、生をそれ自体として具体的かつ全体的にとらえようとする。

知性や概念的思惟の優越性を否定して意志、感情、直観、体験を重視すること、機械的必然性を拒否して自発性、創造性を強調する。

生の哲学の起こり ショーペンハウアーのペシミズムの哲学

彼は、苦に満ちた「盲目的な生への意志」が世界の本質であり、その意志による生は苦そのものであるとする形而上学を説いた。

「生そのものが力への意志である」といつて、ショーペンハウアーの意志の哲学を力強い生の哲学の立場へと転換させたのがニーチェである。ニーチェはキルケゴールとともに実存哲学の先駆者とみなされるが、生の哲学者でもある。それゆえ、生の哲学は実存哲学の一つの源泉であるといえる。

十九世紀後半から二十世紀はじめの時期における生の哲学の代表者

ディルタイ、ジンメル、ベルグソン

ディルタィ 歴史や文化は生の表現であり、「生の客体化」とも「客観的精神」とも呼ばれる。彼の生の哲学は、かかる生の表現としての現実を了解および解釈によつて把握しようとするものである。

ジンメル ニーチェとの関係が深く、自己を超越する生の動性と創造性を強調する。生は、文化を形成する原動力であり、それは絶えず「より以上の生」を求め、かつそのことによって「生より以上」のものを生みだすのだという。

ベルクソン 生の哲学は大きく発展する。彼は実在を、世界全体を貫いて創造的に進化していく巨大な生命の流れと考え、それを直観によって把握しようとする生命の形而上学を確立したのである。

 

プラグマティズム

プラグマティズム(pragmatism)は、アメリカに起こつた哲学である。

「なされたこと・行為」を意味するギリシア語「プラーグマ」に由来

知識や真理を抽象的あるいは形而上学的に考えることを拒否

具体的事実に即した実際的哲学(その意味で「実用主義」と訳される)。

基本的な考え方

知識の真理性は実際の生活、経験の場に適用して行動した場合に有効であることに存する。

不変の絶対的真理が問題なのではなく、絶えず経験に即して真理を検証し修正しつつ知識を獲得していく過程が問題。

ジェイムズがパースの思想の影響を受けて普及させた。

パース プラグマティズムを科学的論理学の方法として考えていた

ジェームズ 心理学や宗教の領域に適用して自分なりのプラグマティズムを確立。

「観念というものは、それを信ずることがわれわれの生活にとつて有益であるかぎりにおいて真である」

宗教に関してもこの基準を適用し、神の観念が生に有益であるかぎり神の仮説は真であるという考え。

 

プラグマティズムはデューイに引き継がれてさらに発展する。

デューイ 

「道具主義」 思惟を単に認識の問題に限定せず、人間が環境に適応しながら生きるための道具として考える。

その道具を実験的に使用することによつて生活の発展が生ずるという意味で、彼の立場は「実験主義」とも呼ばれる。

探究の理論としての論理学を構築したが、その意味で、彼はパースの哲学的態度に再び近づいたといえる。

ちなみにパースはソシュールと並ぶ記号学(semiotics)の提唱者

 

現象学

フッサール 新カント主義と同じく心理主義的認識論を批判して、心理作用から独立した客観的な論理関係の研究としての論理学を考えた。その論理学研究を発展させて彼が創始した現象学は、本質直観にもとづいて事象そのものを記述する本質学であり、「厳密な学としての哲学」を目指すものである。「事象そのもの」とは生なまの事実ではなく、理念的イデア対象としての「意味」であり、それが形相けいそうとか本質と呼ばれる。それが直観される場が、いわゆる現象学的還元によって達せられる純粋意識(超越論的主観性)である。本質を直観するとは、いいかえれば、現実を、純粋意識において意味的に構成される(再構成される、と考えたほうがよい)本質構造として記述することなのである。

やがてフッサールを中心とする現象学派が形成され、多くのすぐれた弟子たちが倫理学、美学、法哲学などのさまざまな方面に現象学的方法を適用して現象学を発展させた。

シェーラーの実質的価値倫理学

ハイデガーの現象学的存在論

フッサール自身の思想も拡大して、後期に現われる「相互主観性(間主観性)」より具体的な経験の場で現象学を展開している。

現象学はその後の哲学に大きな影響を与えた。

現象学には、論理化、抽象化以前の、意識に直接的に与えられ直観的に把握される原初的事態に忠実であろうとする態度がある。そのことが、のちの哲学に対する大きな影響力の理由であろう。

特に、実存哲学の発展はフッサール現象学の影響なしにはありえなかつたであろう。

サルトルはハィデガーに続いて現象学的存在論としての実存主義哲学を構築

メルロポンティも後期フッサールの思想を基礎にして独自の実存哲学、存在論を企てた。

また現象学は、心理学、精神医学、社会学など、哲学以外の学問分野にも応用されている。現象学は、今日もなお発展しつつある現代の生きている哲学である。

 

危機の時代ー三つの大きな流れ

人間性回復を目指す哲学

二十世紀に入って勢力を得た三つの哲学派

実存哲学、マルクス主義、分析哲学・科学哲学

 背景には、「不安の時代」とか「危機の時代」とよばれる二十世紀前半ないし半ばの時代状況がある。それは、要するに「人間疎外」の状況である。今世紀における二度の世界大戦は、人類の進歩という信念や人間性への素朴な信頼を打ち砕いてしまった。時代に先立って詩人や哲学者たちが予感した無の不安があらわになり、シュペングラーの説く「西洋の没落」が現実的な事態として意識されるようになった。科学技術の進歩は機械文明の繁栄をもたらしたが、同時に、個性を喪失させて人間を機械の一部、歯車と化す非人間的状況を引き起こした。改めて「人間」が問い直されなければならない。

実存哲学もマルクス主義も、人間の平均化、機械化、いいかえれば疎外他有化という危機的状況を克服しようとする試み。

一方は、本来的自己としての「実存」の実現に、他方は、階級的支配の廃絶による経済的貧しさからの解放に、人間性の回復を求めるのである。 分析哲学.科学哲学は右のような不安や危機の状況とは別の次元に位置しているようにもみえるが、論理性、科学性の面から、いいかえれば理性の面から、科学の時代の人間のあり方を求めるという意味で、やはり人間性回復を目指す一つの方向と解することができる。

 

実存哲学

先駆者 キルケゴールとニーチェ。

 

キルケゴール

人間の現実存在および真実存在としての「実存」という概念は、ヘーゲルの体系的哲学に対抗して単独者の主体的真理を求めたキルケゴールに由来する。彼の終生の課題はいかにして真の自己となるか、すなわちいかにして真のキリスト者となるかということであり、そのために彼は、ひとり神の前に立ち、永遠の救いへの無限の主体的関心と情熱に支えられた実存的思惟を貫いた。

 

ニーチェ

これに対し、キリスト教信仰の実質的崩壊を「神は死んだ」という言葉で宣言し、無神論を貫こうとする。

「力への意志」をもつてニヒリズムを生き抜きかつそれを克服する「超人」の立場を求めた。

両者は、思惟の方向の点ではまったく対立するが、実存的思惟の真撃さの点では大きな親近性を持っているのである。

第一次世界大戦後のドイツにおいて、キルケゴールとニーチェの影響のもとに、ヤスパースとハイデガーによつて本格的に実存哲学が展開される。

 

ヤスパース

自ら「実存哲学」を唱える唯一の哲学者であり、彼の思索の主力は、現存在という日常的生存のあり方から飛躍して、人間の本来的あり方である実存の実現をわれわれに訴える「実存開明」に集中している。

彼にとって実存哲学は同時に形而上学であり、実存がいっさいのものの究極的根拠である存在そのもの超越者に関係することが説かれる。

このように、実存哲学は単に実存のみを問題にするのではなく、西洋哲学の伝統である存在論的思索がその背景にあるのである。

ヤスパースの存在論的思索は後期において「包括者」の思想として展開される。

 

ハイデガー

現象学を方法とする現象学的存在論を企てた。

その基礎である現存在の分析は、基礎存在論と呼ばれ、彼の主著『存在と時間』の内容をなしている。

彼の場合も、やはり現存在から本来的自己としての実存への飛躍が考えられている。

彼は、現存在の存在構造の分析にもとづいて存在一般の解明をおこなう予定であったが、「転回」以後の後期思想は神的な「存在そのもの」を直接に思惟する態度に変わり、神的根源としての存在への帰入が説かれるようになった。

 

サルトル

第二次世界大戦後、フランスにおいてサルトルが「実存主義」を提唱する。彼は、ニーチェの精神を受け継ぎ、無神論的実存主義を唱える。

彼においては、「存在」はもはや神的なものではなく、存在の無意味性が宣言され、同時に実存の自由の絶対性が主張されることになる。

 

フランスの実存哲学の代表者としてほかに、

マルセル

ヤスパースやハイデガーとほぼ同時期に独自の実存思想を構築し、「存在の神秘」を思索するカトリックの思想家

 

メルロポンティー

後期フッサールの現象学をよりどころにして世界内存在としての身体的実存を分析する。

 

マルクス主義

マルクスとエンゲルスによつて形成された社会主義ないし共産主義の思想

二人とも十九世紀の人であるが、政治.経済との密接なかかわりをもったその実践的思想は、今日も現実とかかわりつつ生きている現代の哲学である。

マルクス主義は、資本主義体制を打破して社会主義社会を実現しようとする、労働者階級の階級闘争の理論である。

 

マルクスは、ヘーゲルから弁証法という発展・運動の論理を学びとり、それとフォィエルバッハの唯物論思想を結合して、弁証法的唯物論、およびそれの人間社会の歴史への適用としての史的唯物論(唯物史観)を確立した。そしてそれにもとづく社会変革の理論は、サンシモン、フーリ工などのいわゆる空想的社会主義とは異なり、経済学的研究による資本主義の構造的解明に裏づけられた科学的社会主義であるとされる。

 

唯物史観によれば、人類の歴史は、物質的生産力と生産関係(経済的構造)との矛盾によって展開する、支配する階級と支配される階級との間の階級闘争の歴史であり、当面の問題は、少数の資本家階級の搾取のもとで貧困にあえいで人間性を剥奪されている圧倒的多数の労働者階級(ブロレタリアート)の解放、すなわち革命であるという。革命による社会主義社会の実現、さらにその完成態である共産主義社会の実現が、人類の最終的解放をもたらすと考えられている。

 

マルクス.レーニン主義

のちにロシア革命の指導者レーニンの理論と結びついたマルクス主義は、マルクス.レーニン主義と呼ばれ、毛沢東に率いられた中国革命にも影響を与えている。

レーニンの理論的業績は、帝国主義という新しい資本主義の段階における革命理論をうちだしたことである。

 

現代のマルクス主義

レーニン型のマルクス主義だけでなく、西欧にも修正的ないし批判的に継承された多種多様のマルクス主義陣営があり、今後もなお複雑な展開を続けるであろう。

個別的なマルクス主義理論家にも、例えばグラムシ、ルカーチ、ルフェーブル、等々、独創的な思想家が多い。

 

フランクフルト学派

また、アドルノ、ホルクハイマー、マルクーゼらを代表者とするフンクフルト学派によるマルクス主義理論の批判的研究も注目されている。

 

分析哲学.科学哲学

「分析哲学」は、主に英語圏で発達した哲学の動向を総括的に指す

言語分析を主要な方法とする点が分析哲学の特徴である。

基本的考え

現実についてのわれわれの認識の当否は現実についてのわれわれの言語表現の分析によって判定される。

ヘーゲル的な形而上学に反対して言語の明晰化に関心を持ったムーアやラッセルが先駆者的な位置に立つが、分析哲学にとつて最も童要な人物は、ヴィトゲンシュタインである。

彼の『論理哲学論考』はシュリック、カルナップ、ノイラート、ライヘンバッハらのウィーン学団に影響を与え、分析哲学の初期の形態である論理実証主義の発達をもたらした。

論理実証主義

彼らによれば、有意味な命題は、数学.論理学のア.プリオリな分析命題以外はすべて経験科学の総合命題であり、経験的に検証されえない従来の形而上学的、哲学的諸命題は論理的に無意味である。そして哲学の残る課題は、言語表現の明晰化とそれによる科学に対する援助であることになる。

しかし彼らの主張、特に検証理論には、もろもろの難点が指摘されている。『

論理哲学論考』におけるヴィトゲンシュタインは、いわば独我論的な観点から、人工言語ないしモデル言語と世界との対応関係を考える立場に立っていたが、後期の彼は『哲学探究』において、社会的、日常的な言語活動を有意味な言語ゲームとしてとらえて、その構造、用法を分析するという新しい立場に移行した。

この後期ヴィトゲンシュタインの思想もまた、英語圏の哲学者たちに大きな影響を与え、日常言語学派(オクスフォード学派)という分析哲学の新しい動向を生みだすことになった。

この場合も、哲学はその言語使用の面から考察され評価されることに変わりはない。

分析哲学は、二十世紀の科学の多様な発達に応じて形成されてきた「科学哲学」の中心部分の一つであり、ときには両者は同義に解されることもある。しかし、科学哲学はより広い範面におたるものであり、科学における方法、カテゴリー、概念、論理構造の分析、科学の認識論的、存在論的前提についての研究、諸科学の統一的把握、さらに科学的事実にもとづいた科学的哲学の展開、等々、科学にかかわるあらゆる考察を含んでいる。要するに、科学哲学は科学の歩みとともに思索しようとする科学の世紀の哲学の総称であって、単純な形で提示することは困難である。

この分野のなかで今日とくに注目されている哲学者としては、数理論理学の研究から出発して、物理的科学の演繹的体系化を試みる科学哲学へと進み、さらに生物学、心理学社会学、倫理学、等々の諸領域に及ぶ包括的な形而上学の体系に向かったホワイトヘッドがあげられよう。

 

 

3脱主体性.解体への動きー構造主義。ポスト構造主義

 

構造主義

一九六〇年代以降のフランス思想界の動向 非常に華々しい

実存主義と同時期に発生 目立たなかつた

六〇年代 注目される

実存主義と構造主義との間 主に主体と歴史の問題をめぐって激しい論争

構造主義は、もともと科学的研究の有効な手段として科学の分野で生じた思惟方法。

科学的方法としての構造主義であるかぎり、本来それは実存主義と、また他の哲学とも対立する必要はない。それが、哲学の領域に拡大されて構造主義哲学になると、事態は重大となる。

 

ソシュール

構造主義の出発点 構造言語学にある。

『一般言語学講義』

言語の通時的研究と共時的研究とを区別し、後者の立場で体系(構造)としての言語すなわちラングの研究をおこなうべきことを示した。

ラング パロール(個々人の言語使用・言語行為)と対立する概念

 人々が使う言語の体系であり、個々人の意志から独立して個々人の言語使用を規制する構造。

重要なことは、ラングの規制力、支配力である。

例えば、日本人が日本語の体系構造から離れては日本語を話すことも書くこともできないように、パロールは一語の諸要素の関係的体系としてのラングの枠内でしか可能でない。

この点に構造主義成立の決定的な契機が存する。

つまり、言語において、語る人間の主体性はなりたたず、いわば人間の意識的自我を超えた言語体系構造が人間において語るのであり、構造こそが「主体」であると理解されることになる。

構造主義の特徴は、主体としての人間を、無意識的構造における諸要素の関係の網の目に解消しようとすることにある。

レヴィ=ストロース

構造主義の展開がはじまる

ソシュールの言語学を文化人類学の分野に応用して構造人類学を創始

未開社会の親族の研究によって、社会における人間生活を規定する無意識的な一般的構造があることを示そうとした。

『親族の基本構造』は、親族体系を一つの語とみなしてその構造を分析するという方法をとつている。彼の構造人類学は科学としての構造主義であろうとしているが、哲学研究者として出発した彼の研究態度にはある哲学的要求が秘められているように思われる。つまり、彼の人類学は結局、人間一般の不変の構造本質を絶対的に認識しようとする一種の哲学的人間学になっているのではないか。例えば、「自由という幻想の根底に存するある必然性が明らかになるレベルに達すること」(『生のものと煮たもの』)を目指すとき、彼は一人の哲学者であるといえるのではないか。

フロイトの精神分析に構造論的方法を適用したラカン、構造主義的マルクス主義を企てたアルチュセール、一種の批判的精神史研究をおこなったフーコー、文芸批評家バルトらは構造主義の代表者と目されるが、彼らも純然たる科学的研究者ではない。いずれも、その理論のうちにある哲学的要素を含んでいる。そして彼らに共通していることは、まさに前述の「主体の否定」を大胆に主張していることである。特にフーコーは、歴史家としてではなく純粋な哲学者としてみられるべきであり、彼において構造主義哲学はゆきつくところまでいつたということができる。彼は、『言葉と物』のなかで、主体としての人間の概念の崩壊を「人間の消滅」として語っている。そして、フーコーにはすでに構造主義を越えたポスト構造主義の要素がはつぎりと認められる。なお、ソシュールは、言語学を一部として含むところの記号に関する普遍的研究、すなわち「記号論」ないし「記号学」を構想した。今日生成しつつある記号論は、ソシュールおよびパースを祖とするもので、特に文化現象一般を言語と同類の構造を持つ記号の体系として考察し分析する文化記号論は構造主義と重なりあうのであり、構造主義者たちは多かれ少なかれ記号論と関係を持っている。

 

ポスト構造主義

ポスト「構造主義」を代表する思想家としてデリダ、ド ウルーズ、ガタリ、さらにリオタール、セール、ジラール、ブリュデューなどがあげられるであろう。

ポスト構造主義の一般的特徴としては、構造主義をふまえながら、もはや一つの不変の構造という考えにはとらわれず、構造の多重性と変換を承認しているということがいえると思おれる。いわば、構造の考え方に多様性と動きが導入されたわけである。そこに構造主義では扱いにくい歴史を論ずる場が開かれる。すでにフーコーは、その歴史的研究において、ある時代の知的枠組みとしての「エピステーメー」が変転するということを説いていた。これは、いいかえれば構造の多様性と変化を主張しているということとなるであろう。

さらにポスト構造主義を性格づけるならば、それは西欧哲学による西欧哲学自身の自己反省、自己批判であるといってよい。西欧哲学において前提されている「主体」を解消し、主体を基盤として営まれる「形而上学」を全面的に解体しようとするのである。ポスト構造主義の旗手というべぎデリダのおこなう「脱構築」とは、既存の哲学、思想をその内部からゆるがし、解体する作業にほかならない。そこには、もはや哲学がよって立つ堅固な絶対的足場は存在しない。これは、ある意味では絶望的な状況である。

しかし、ポスト構造主義には必ずしも暗いニヒリスティックなムードはない。少なくとも流行現象としてのポスト構造主義には、一つの立場に固着せずにさまようことを楽しむ雰囲気があるとさえいえる。ポスト構造主義が果たしている仕事は、建設ではなく批判.解体である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第2次大戦後 

実存主義 サルトル、ハイデッガー

 あまりにも人間の個人的在り方を中心に考える

 

構造主義 レビ・ストロース

 関係性を重視 1960年代フランスを中心に

 人間を構造の中の一つの交換の要素としてのみ考える

 構造は相互に交換可能な同質な要素によって成立している

 構造主義には異質なものを内在させる能力がなく、そのために他のものとの関係が成立せず、動的なものが欠けていると言う批判

 構造主義では、人間という概念は重視されず、また歴史・宗教といったものはほとんど無視されている

 

ポスト構造主義

 構造主義の人間軽視に対する反作用

 宗教や歴史の役割が重視される

 

 

 

 観音菩薩の五観に、現代社会の諸問題を解決する術があるように思われる。

 真観、清浄観、広大智慧観、悲観、慈観。

 空観 仮観  中観    抜苦 与楽

 

呪われた部分

G,パタイユのキー夕一ム。純粋を好む近代精神は、不純なものを排除し隠蔽する。ところが性であれ聖なるものであれ、人間的生の根源にあつて、生きた実感をもたせるものである。きれいごとの合理主義は単なる有用主義でしかない。有用合理主轟の文化は呪わしいものを消すことで人間をとめどなく退廃させる。むしろ呪われた部分から人間を見直すべき、ではないか。こうしたパタイユの思想は普遍的な意義をなおもっている。

 

ノマディズム

G.ドゥル一ズの言葉。根源や根拠を求める思想、政治釣社会的中心(中央集権)を善とする思想は、すべて定住民的思想である。定住型思想は、国家権力を専制化したり全体主義化して、人間個人の抑圧と差別を作る。自由と解放の思想は遊牧民型思想にあり、たえず中心.秩序から脱出・逃走するには捕囚権力との闘争を生きることと一つにする。難艮の時代である現代では、ノマディズムの思想こそがアクチユアリティをもつ。

 

暴力

嫉妬、妬みの心理は、複数の他者との競り合いがある限りなくならない。妬みや嫉妬はかならず他者排除の暴カを誘い出す。人間社会には暴力がつきものである。この小さな暴力は大きくなるとロ家権力の暴力や人種差別的大量虐殺に通じている。暴力は人間存在の根源にある。存在は暴力的である。哲学が暴力を避けて思椎しない限り哲学は容易に暴カの共犯者になる(たとえばナチズムと哲学の関係)。暴力は思想的枇判の対象にならなくてはならない。

 

フエミ二ズム

近代思想は生産中心主義である。それは自然を女と見立てて征服する男根中心主義である。男根中心主義は社会.経済.政治.文化を今も貫徹している。資本は男根であり、ロ家権力は男根である。戦争は武器からして男根的であり、大量虐殺をする点で最大の男根中心主義の現れである。ヒエラルキーは必ず男根的な頂点(亀頭)をもつ。男根中心主義を解体する可能性は、思想としてのフェミニズムにある。

 

遊戯

近代以前の文化は基本的に遊戯文化であり、非生産中心主義的であった。近代の労働.生産体制は遊戯を怠惰と同一視し、ついに悪とする。遊戯はふやけた遊びに変質する。現代消費社会は近代的に変質した遊びの社会になっている。遊戯はもともと闘争とはりついている。闘争を負の殺し合いにならないように制御する力を遊戯はもっていたはずである。呪われた部分になった遊戯の文化的再生こそ、現代の焦眉のテ一マになる。

 

ポリフオ二一

多声、対位法どいう音楽用語。文化論に転用すると差異の重層性または多元性を意味することになる。同一性重視の思想は、つまるところポリフォニ一的複合性を消去する。同一性や透明性よりも、不透明で多層的な存在であることが事実にも合つているし、自由度の高さを指し示すことができる。必ずしも謂和する必要はない。異質物の混在を寛容に受けとめる精神をもち、たえず自己異化していくことこそ、ポリフオニ一的生き方にふさわしい。

 

流行

過去の規範に囚われているかぎり流行はない。流行は現在の強烈な意識である。現在中心主義は近代文明の中でのみ流行は繁栄する。流行は新奇さを狙うものであるが、新しさの見かけを演出するのであつて真に新しいものは生まない。また流行は純粋に空虚な形式であつて、まさにそのゆえに人々を意味充実の欲望に誘う。空虚な形式に意味の見かけを与えるのが流行について語る言説である。流行は物語とともに生き、新しさの外観をまどつた古きものの反復である。流行は全てを陳腐化させる過激な力によって、一方では生命とものの浪費のシステムを生むが、他方では伝統や根拠や権威の解体を促進する健康な力をも生む。

る心性を人々の心の内に呼び起こしている。終末論の魅惑に抵抗する精神の構え方が肝心である。なぜなら終末論はどんな形をとろうと荒廃しか生まないからである。

 

トランスモダンの解読

パラタクシス

語義は「併置」で、文法用語。ここではパラタクシスを思考様式の夕イプとみなしておく。パラタクシス的思考は現代思想の重要な特徴である。パラタグシス論が枇判の対象とするのは、特にへ一ゲル型の肯定(積極)弁証法である。肯定弁証法は、始原と目的をもち、究極目標に向けてたえず対立物を止揚する。止揚すべき対立物がなくなるとき、弁証法的過程は終わり(目的)にたつする。目的論と終末論と進歩論を内包するのが肯定弁証法であつた。パラタクシス論は、肯定弁証法を構成する三要素を解体する。始原目的の除去、累積的止楊と統一の除去がパラ夕クシス論の当面の作業であるが、それはさらに進んで、容易には統一と止揚を受け入れない抵抗する個物(司一を拒否する異物)の救済をめざす。アドルノ流に言えばパラタクシス論は否定弁証法であり、否定弁証法パラタクシス論においては、止揚を拒否した対立物の力の場(闘争の場)を重視する。肯定弁証法がしばしば権力にょる支配の正当化の論理に変質する(ロシア・マルクス主義がその一例)のに対して、パラタグシス論は、中心と権力と秩序に吸収され同一化されるのを拒絶する永続的な、終わりなき個物(異物)の闘争の現場に身を置くことである。アドルノ的パラタクシス論は、カの対立的場を指示しようとしたベンヤミンのコンステラティオン(力の配置、星座)の継承である。同じことがラノスの現代思想にも見られる。対立的併置論を語ったドゥルーズ・ガタリの「アンチ.オイディプス』がそうだ。「と」の定式は、彼らにあつては中立的並存のことではなく、闘争=戦争機械論の技法を示す。ドゥル一ズ的ノマディズムは、いわばパラタクシス的思考なのである。またデリダのテコンストリュクシオン(脱構築)もパラタクシス的思考の一つの型である。それは、反定立的批判をめざゝすのではなく、存在神学的な同一化体系化に吸収されることのできない「差延」(エクリチュール)の救出であり、目的論的統一(止揚)を機能停止させる永続的な抵抗の技法である。最後に、アルチュセールの重層的決定論は文字通り「力の場」の複合態の概念てあり、止揚と統一なき諸力の場としてのパラタクシスであつた。パラタグシス概念は、単なるモダンの否定ではなく、モダンを横断し、モダンの遺産を継承しつつ、これまで思惟されえなかったものを思惟可能にするもつとも重要な思考様式になるのである。

構造主議

言語学、記号学、人類学、精神分析、思想史、テクス卜論において「言語」をモデルにして認識を再組織する運動。フランスの構造主義運動がもつとも有名である。ソシュールの構造言語学が引き金になり、レヴィ=ストロ一スの構造人類学、J.ラカンの構造主義的精神分析、R.パル卜の構造記号学、M.フーコ一の思想体系論、L.アルチユセールのマルクス論などが相互に影響し合いながら展開した。これは人文.社会科学における一つの認識論的革命であり、しばしば構造主義革命といわれる。構造主義は、直接には、哲学的思想ではなく、科学的認識の方法論であり、方法の革新または知性改善論である。構造主義は、科学内部の知性改善論であったが、同時に間接的な仕方で哲学的革新の含蓄をもっていた。その中心論点は、近代的主観主体性の思想の解体にある。主体はもはや世界を構成する能動的中心ではなく、構造の担い手になる。社会と文化を理解する座標軸が「主体」から構造に移るまさにこの点で、構造主義は近代的思考の極限でありつつ、同時に近代性の土台を掘り崩すという分岐点の役割をはたした。構造主義のインパク卜を受けた哲学は、構造主義の哲学的含意を余すところなく引き出す課題を突きつけられている。

ポス卜構造主義

フランスで起きた哲学運動。その代表者として、J.デリダ、後期のM〓フ一コ一、G.ドゥル一ズ、J.F.リオ夕ールなどがいる。ポス卜構造主義は、構造主義を否定した哲学や思想ではない。それは構造主義という科学が提起する哲学的含意を徹底させることである。当然そのときに、構造主義に対する一定の認識論的枇判が不可欠になる。そうだとしてもポス卜構造主義は構造主義批判ではなく、構造主義の真理を守り継承しつつ哲学的思考の革新を企てる。哲学的にみれば、構造主義者の中にはなお近代哲学の構図を温存する人々もいるわけで、構造主義の真理内容と矛盾することも多い。構造主義にまといつく近代意識哲学のイデオロギーを解体しつつ、構造主義が事実上開拓した脱人間主体主義の方向へと哲学的分析をおしすすめることこそ、ポス卜構造主義の主題となつた。デリダのデコンストリユクシオン論、ドゥル一ズの差異の哲学、リオ夕一ルの漂流論とパラロジ一(抗争)論、フーコ一の脱中心化等々は、いずれも近代をふくむ西欧形而上学全体に対するパラタクシス的抵抗の試みである。最後に強調しておくべきことは、ボス卜構造主義は古代以来の「哲学制度」に疑間を付す徹底した自己批判の試みであると同時に、政治的.倫理的思想の新しい企てであつたという事実である。

 

啓蒙の弁証法

ホルクハイマーとアドルノの哲学的なキーターム(両者の有名な著作『啓蒙の弁証法』に由来)。「啓蒙の弁証法」の意味は、字面から予想されることと違って、啓蒙(理性)が野蛮に変質することである。啓蒙は古代ギリシャ以来野蛮からの解放、または魔術からの解放であったはずであつた。ところが啓蒙は神話や呪術から脱け出すたびに再神話化に陥る。再神話化は野蛮ヘの回帰である.野蛮の形態は歴史によって異なるが、野蛮に違いはない。

近代啓蒙は独自の形をとって野蛮へ回帰する。近代理性は初発から効率主義と計量主義の傾向を抱え、ついには道具的理性として確立する。本来、道具やモノになりえない理性が道具になり、そうすることで理性自身の自己否定に帰着する。個人の内面でも社会政治生活の面でも、道具化と物象化があまねくゆきわたる。二○世紀の全体主義は「啓蒙の野蛮への弁証法的変質」の典型例である。

ところで「啓蒙の弁証法」の理念は、近代理性それ自身の枇判的吟味であり、表向きの理性主義が隠してしまった暗部を露出させる思考の技法を育てる。

アドルノのパラタクシス論は「啓蒙の弁証法」を解明しつつ啓蒙の非道具的遺産を守ることを課題とした。

「啓蒙の弁証法」論は、その意味でトランスモダンの先駆であり、フランスのポス卜構造主義の祖型でもある。だが学派を超えてこの理念は、現代思想のもっとも重要な位置に立つともいえる。なぜなら啓蒙の弁証法は、今でも進行中であるからである。

ホルクハイマ一とアドルノが作つた「文化産業論」はまさに現代大衆社会の中で動く「啓蒙の弁証法」を読み解く技法になりうる。

 

〃現代〃の哲学

現代の哲学として取り扱うべきものは数多い。ブラグマティズム、分析哲学、科学哲学、マルクス主義哲学、現象学、構造主義、ポスト構造主義、実存主義、解釈学等々、枚挙にいとまがない。

かつて半世紀ほど前、やはり現代哲学が論じられたさい、興味深いことがあった。そのとき、あげられた哲学の諸傾向のなかに、プラグマティズム、マルクス主義哲学、現象学、実存主義、そして当時としても少しさかのばった感じで、新カント学派、生の哲学、独墺学派などもあつた。プラグマティズム、マルクス主義哲学、現象学、実存主義がほぽ一世紀にわたって存続しえていることも一つの問題、〃現代〃にかかわる問題をなすといえるであろうが、ここでは、その半世紀前の〃現代〃の哲学諸傾向のなかに、N.ハルトマソの批判的存在論の立場があがつていたことに、注目しておぎたい。同様のことが今日の〃現代〃でもいえるのである。それは、AN.ホワイトヘッドの有機体の哲学を今日の〃現代〃哲学諸傾向の一つに組み入れるということである。

 

コスモロジー、有機体の哲学

これらの哲学傾向ーハルトマソおよびホワイトヘッドーは地味で目立たない。実存主義や分析哲学の陰に隠れて、うつかりすると見過ごすのである。しかし、ハルトマンの批判的存在論は、カントの影響を受け、これを乗り越えようとするものであつて、単に存在論のみならず、倫理学その他の領域にもわたって、一つの大きな哲学体系を構築している。それと同じように、ホワイトヘッドの哲学は、自ら有機体の哲学(philosophy of organism)と称しているように、人間をも含めた宇宙全体に及ぶ壮大なコスモロジー(宇宙論)を展開している。しかし、「有機体」のイメージでさえもまだ十分に知られていない。主著『過程と実在』(一九二七年)の書名が示すように、それは、人間と世界を含めての、相互浸透、全体的進動の哲学であるといえばよいであろうか。カントでもいまだ十分には止揚しつくさなかった理性論と経験論の二元対立、あるいはいっそう一般的に観念論と実在論、唯心論と唯物論等々の二元対立は、ホワイトヘッドの哲学においては無縁である。カントに先立つロックやヒュームのイギリス古典経験論の「経験は心理学的な要素を多分に有し、それはカントの超越論的哲学においてもなお残存している。他方、デカルトに発する大陸の理性論はカントにとりいれられ、その哲学の根幹となり、範疇論となって展開する。カントは、これをもって人間的認識(経験)の構造を解明してみせたのである。しかし、なぜ範晴が十二であるか、またその範疇構成は、『純粋理性批判』の演繹論での苦渋に満ちた努力にもかかわらず、果たして客観的でありうるか、というような点は、いまだ十分に解明されたとはいえなかつた。カントは、このように主観から世界へと出ていつたが、ホワイトヘッドは世界から主観へと入つていく。その結果、ホワイトヘッド哲学には十や二十にとどまらない諸範疇の錯綜と、諸科学の最新の成果までふまえた概念構成とがあり、カントの残した二元性の問題を克服するとともに、確かな客観性の保証をそこから導出しょうとするのである。

形而上学の復権

しかし、それだからといつて、ホワイトヘッドの立場は単なる科学合理主義であるのではない。「具体性を置き違える説謬」(fallcy of misplaced concreteness)のことを示している。科学は、具体的な事態をしばしば誤った仕方で誤った方向へ抽象化する。これに対して、形而上学はこれをその具体性のまま、すなわち「過程と実在」、あるいは「過程即実在」としてとらえる。ホワイトヘツドは、科学の立場を十分認めながら、それが抽象的に陥ることを批判し、かえって形而上学に具体性をみる。

現実的実質

では、ホヮイトヘッド形而上学は事態を具体的にとらえるとは、どのようなことであろうか。

まず「経験」の語を広義に用い、生物や無生物にいたるまでをも包摂する範疇の設定をおこなったことを、あげなければならない。その結果、現実的実質(actual entity)という概念が提起される。これは伝統的な意味での実体観を超え、現実的実質を現実的契機(actual occasion)とも呼ぶことでもわかるように、実体を過程的に、あるいは出来事としてとらえるのである。このような過程ないし出来事はもとより因果的生起であるけれども、主体からする自己創造の営みが受動と能動とのはざまを縫って展開され、現実的実質としての人間がそこに介在している。環境も自然もまた現実的実質であり、かかる現実的実質の働く「場」ともいうべきものがある。そこで営まれる過程ないし出来事を包握(prehension)という。包握は、プラグマティズムのデューイの哲学でいえば生活体と環境との相互作用に相当するであろう。

しかし、ホワイトヘッドのいう包握のほうがさらに包括的であり、かつ主体の側の自己創造の秘密にまで立ち入つて論じているといえる。「場」での包握のさまざまなレ

ベルによって概念的.個体的.社会的などの営為が生ず

る。

永遠的対象

永遠的対象()という新しい概念もつくられた。それはプラトン的なイデアに近いと考えられるが、いかなる現実的実質にも必然的に関連づけられることなしに概念的に包握される実質を、永遠的対象と呼ぶのである。それは純粋な可能性である(ただし複数)。かかる永遠的対象のすべてを包握しているのが神である(包握の包握、神の原初的本性)。しかし、神もまた一つの現実的実質であり、自らを与件として、他の現実的実質の自己創造、包握過程へ提供する。これを神の現上態()。という。神は現実的実質の過程即実在、その発展的具象化に寄与するのである。

そこで、「神」は原初的にして結果的であるということができる。ホワイトヘッドはこの点を「世界」と相即させて、次のように定式化している(『過程と実在』第5篇第二章「神と世界」)。

@神が恒常的で世界が流動的であるというのは、世界が恒常的で神が流動的であるというのと同じく、真である。

A神が一で世界が多であるというのは、世界が一で神が多であるというのと同じく、真である。

B世界と比べて神がすぐれて現実的であるというのは、神と比べて世界がすぐれて現実的であるというのと

同じく、真である。

C神が世界に内在するというのは、世界が神に内在するというのと同じく、真である。

D神が世界を超越するというのは、世界が神を超越するというのと同じく、真である。

E神が世界を創造するというのは、世界が神を創造するというのと同じく、真である。

しかし、ここで注意しなければならないのは、それだからといつて、神と世界とは単純な互換概念ではないということである。神と世界とは「相互に逆に動く」のであるが、その逆の動き方とは、単純に互換的でないという意味で、次のように規定される。

「神ははじめから一である。神は多くの潜勢的形成の関連の原初的統一性である。過程において、神は結果的諸多性を獲得し、原初的性格はこうした諸多性をそれ自身の統一性へと吸収する。(これに対して)世界は原初的には多である。自然的有限性をともなつた多くの現実的契機である。過程において、それは結果的統一性を獲得する。そしてこの統一性は新たな契機であリ、原初的性格の諸多性へと吸収される」(同上)。

かくして、神は、世界が(まず)多にして(そして)一

とみなされうるのとは逆の意味で、(まず)一にして(そして)多とみなされうるのである。「いっさいの宗教の基礎である宇宙論の主題は、永続的統一性へと移行する世界の力動的な努力の物語であり、そして世界の多様な努力を吸収することによって完成の目的を達成する神のヴィジョンの静的な威厳の物語である」(同上)。ホワイトヘッドの説く有機体の哲学は宗教の基礎としての宇宙論であることがわかる。すでに神についてのホワイトヘッドの見解には触れてあるが、宗教を主題とすにおいて、「宗教」はどのように論じられているであろうか。

宗教の形成

そこでは、神の概念について次の三形態をあげている。

(1)神は非人格的秩序で、世界はそれに適合するとみなす(東アジア的概念、仏教の〃法〃などか)。

(2)神は特定の人格的個的実在である(セム族的概念、キリスト教の神はこれに三位一体の考えを加える)。

(3)世界の実在性は神の実在性である(汎神論的概念、神即自然〔世界〕)。

第一の場合、神について語ることは世界について語ることである。第ニの場合、世界について語ることは神について語ることである。第二の場合、神について〃人格的〃〃実在者〃〃個別者〃〃現実的〃等々の説明語を付するが、それらは厳密に用いられなければならない。そのためには、形而上学が必要である。しかし、この場合の形而上学とは超越的.独創的なものではなく、「生起するいっさいのものの分析に不可欠なかかわりを持つ普遍的観念の発見を目指す学」である。ホワイトヘッドの神概念は、ただちにキリスト教のそれではない。むしろ神は現実的実質としてそれ自身のうちに悪の知を有しており、神でさえもその存立のためには他を必要とするのである(スピノザ流の神実体の否定)。

プロセス神学と西田哲学へのかかわり

ホワイトヘッド哲学は、その過程的包握の仕方、「神でさえ他を必要とする」考え方などによつて、ブロセス神学や仏教哲学、西田哲学との類似が指摘され、二十一世紀における東西哲学思想の対話.融合の状況に対して、有効な原理を提供する可能性を秘めている。