人間の生の意味の探求(二)
ー「生」と「意味」の概念の明確化と
「意味」の把握方法についてー
中央学術研究所
所員 大山隆一郎
<はじめに>
人間の生の意味はいかにすれば求められるのであろうか。こうした問いかけを自らに課し、先哲の著書を紐解き、思索の結果、方法論としては、「比較思想」が妥当であり、適切なものではないかという結論に至った。
先の拙論では、「比較思想」とは、たんに論理的に諸思想の同異点を比較検討するだけでなく、現実の生を視点におき、自己の生き方を思索し、全人的な探求と実現が要請されるものであることを論じた。(1)
方法論の探求の次に取り組まなければならないことは、「生」と「意味」の概念を明確にすることであると思われる。概念の問題に深入りすると、思弁的となり、観念の網の中に閉じ込められてしまうのではないかとも恐れるが、概念的に明確にしておかねばならないものは、そうしておかないと、議論が進んでいかないと思われるので、あえて深入りすることにする。
西洋の思想史においては、ショウペンハウエルを祖としてニーチェ、ベルグソン、デイ ルタイ、ジンメルらによって代表される、「生の哲学」の系譜が見られ、ドイツ観念論の理性主義、主知主義への反対から、生そのものにおいて、生に即して生をとらえるという直観的、非合理的方法を拠り所としている。(2)しかし、そのような営みでさえ、直観を基礎としたものであるが、思索を加えることは不可欠なことであり、思索することは、所詮は言語によってなされており、言語である限り、概念を規定しておかなければ理解をすすめ、深めることは困難であると思われる。
<「生」の意味について>
生とは、何をさして生というのか。人間の生とはどのように定義すればよいのであろうか。ここでは、生とは、生まれることであり、生きることであり、その本質は、「いのち」(3)であると概念規定しておきたい。つまり、生の意味の探求とは、何故この世に生まれてきたのかという疑問を探ることであり、何故今この現実を生きているのかという疑問を探ることであり、その本質である「いのち」そのものの意味を考察することである。従って、生の意味とは、生まれることの意味であり、生きることの意味であり、「いのち」の意味ということに言い換えてもよいと思われる。
こうした内包を有する生に関して探求するうえで、方法論上まず明確にしておきたいことは、人間の生一般についてなのか、それとも特殊な個人の生についてなのかという問題である。それに応じて、自ら導きだされる結論は、その具体性のレベルにおいて異なってくるであろう。この問題については、第1段階としては、普遍的な意味で、人間の生一般について考察することとしたい。そして、次の段階、最終段階において、特殊な個人、つまり、個々人のレベルでの生の意味の探求へ移り進んでいくこととなる。
しかし、一般的な意味においても、人間の生の歴史性については指摘しておかねばならない。人間の生が超現実的に、抽象化されてあるわけではない。人間の生は常に具体的なものである。つまり、ある特定の地域、時代に限定された中での生なのである。この視点は、常に忘れないようにしておかないと、現実から遊離した、形式的な議論に陥り、形骸だけの死にもの同様な思想となってしまうであろう。
<「生」の始まりと終わりについて>
人間の生は誕生をもって始まり、死をもって終焉する。人間の生を考え始める時、まず突き当たる難問は、この生の始まりと終わりについてである。一体何時から人間としての生は始まるのか。そして死とは一体どのような状態をさして死というのか、死の意味するものは何であるのか。そして、その生と死との間の人生とは、一体何であろう。
人間の生がいつ誕生するかについては議論が多いところである。一連の生の流れを列挙してみると、精子と卵子の結合から始まり、細胞分裂を経て胚子から胎児に成長する。そして出生。幼児期から児童期、青年期、成人期、老年期そして死。いわゆる平均寿命を無事終えるとすれば、そのような順序となるであろう。様々な誕生と、生きざまと、様々な死がある。しかし、それぞれの段階を詳細に吟味し始めると、自明であったものが、不明となってくる。
人間としての生の始まりが、何時からなのか。ここからであるという基準はあるのであろうか。堕胎の是非の問題も、この人間としての生の始まりの曖昧さにあると言える。
精子、卵子でさえ、細胞のレベルでは生きているものである。しかし、この段階を人間の生としてとらえることはできない。2億とも3億とも言われる精子がサバイバルゲームを繰り返し、その中の一匹だけが卵子内に入り込み、受精が完了される。(4)しかし、このような試練の末にやっと受精した卵のうち4分の1は異常を持ち、子宮内膜に着床できないといわれており、また着床した卵でも3分の1はその後の成長を続ける能力がなく、誰も気づかないうちに死滅してしまうという。(5)
受精後、この一つの細胞から分裂を繰り返し、人間としての複雑な構造を持つ体が形成されていく。問題は、この過程の一段階をとらえて、ここからが人間としての生の始まりであると断定できるのかということである。それが困難であるとすれば、単純に母体から出生した段階から、人間の生と規定すればよいのではないかという考え方も生じる。すると、7、8箇月の胎児はまだ人間ではないのかという疑問が生じる。しかし、未熟時で出産する場合もあるが、出産すれば、人間の生で、胎内では人間ではないという矛盾に満ちた結論となってしまう。どこに人間としての生の出発点を見いだすことができるのであろうか。
この拙論では、そうして矛盾を克服するためにも、暫定的に(6)、生物としてヒトのいのちと、人間としてのヒトのいのちと、人間としての人間のいのちと分けて考えることとする。生物としてのヒトのいのちは受精した時点から始まる。最初の二カ月は胚子と呼ばれる段階で、この時期に重要な器官がほとんど出来上がり、人間の胎児としての形作りが完了する。受精からこの胚子としての時期を、生物としてのヒトのいのちと名付ける。特殊な状況による堕胎が許容されるのはこの時期までである。(7)
人間としてのヒトのいのちは、人間としての形が形成された時に始まる。すなわち、胚子から胎児への移行をもって始まる。人間としての形が形成され胎児と呼ばれる時から出産までの時期を、人間としてのヒトのいのちと名付ける。その後も基底として、このヒトとしてのいのちは死に至るまで存続する。
脳の形成という点からしても、2カ月で、大脳半球が出現し、150万ほどのニューロンの母基細胞ができる。これが分裂を重ね、20週ほどで、150億個となり、ニューロンの分化は妊娠6カ月ごろまでに終わるとされ、胎児の時期に精神作用の基礎である脳の基本構造は形成される。グリア細胞は出生後も増殖するとされているが、ニューロンの数は増えない。出生後は、ニューロンから出ている突起が伸びて大きくなり、ニューロン間の回路網が発達し、複雑となっていく。(8)
人間としての人間のいのちは、このヒトのいのちの上に、人間とは一体何かという価値観が加えられて、始まることとなる。この人間観に関しては、客観的で普遍的な基準は存在しないと思われる。こうした意味から言えば、それぞれの文化圏において、あるいは個々人の人間観によって、人間としての人間の生の始まりは異なるものである。私の人間観からすれば、人間とは、人間としての身体的要素と、精神的要素が形成され、人と人との間柄が形成された時に始まると見做す。こうした観点にしたがえば、人間としてのいのちは、胎児が赤ちゃんとして母体から誕生して母親および周囲の人々との間柄が形成されるときに始まると考える。
出産の苦しみは、母親も胎児も同様である。狭い産道で胎児は窒息寸前の状態になる。そのためストレス時に分泌されるノルアドレナリンが大量に分泌され、これがきっかけとなり、それまでの水中生活から陸上生活に移行するためのすべてのスイッチがオンにされるという。具体的には、脳と肺の機能が開始するという。(9)この出産後から人間としての人間のいのちが始まる。この母体から生まれ出づるという事実を、人間としての人間の生の出発点と考えることとする。ここに人間としての主体が発生する契機がある。
死についても同様に難しい問題である。最近は脳死の問題がクローズアップされてきており、これまでの死の判定、呼吸の停止、心臓の停止、瞳孔の拡大にチャレンジしている。死とは一体何であるのか。
脳死の段階で、人間としての人間のいのちのから、人間としてのヒトのいのちに変化し、肉体の死により、ヒトとしてのいのちも滅する。肉体の死には、これまでの死の三兆候が第1段階、全細胞の活動停止が最終段階であるとみなしたほうが妥当であると思われる。
まして、日本人の死生観は、一つの「流れ」として生と死を把握する傾向にあると言われている。生も死も流れの一こまであり、始めと終わりではない。「非連続の連続」とでも表現されるものである。脳死をもって死としてしまうのは早計であろう。しかし、その段階で、人間として、ヒトとしての生を終える前に、未だ生きている自己の臓器を他のために提供することは、本人の意志でなされるものならば、許容されていいのではないかと思われる。
死の問題にも関連してくるが、最近は臨死体験の問題が注目されてきている。魂の存在と死後世界の問題を含む、人間の生の意味にとっては根幹にかかわる重要な問題である。
しかし一般的な風潮としては、死の問題を真正面から真摯に考察することが拒否されているような状況を現代は生みだしている。死の不安を抑圧し覆い隠している。(9)いかにその不安を抑圧し、覆い隠そうとしても、人間は誕生して以来、死に向かい、一日一日、歩を進めていることは確かなことなのである。今日一日終えることは、死へ一日近づいたことなのである。確実にそこにある死の問題に対し、何らかの対策を講じておかねばならないであろう。
もし、大型の台風が明日必ず上陸し、自分がすんでいる地域を襲うことが分かっていれば、風雨と洪水に対し、難を最小限にするために、様々な工夫を凝らし対策を考えるであろう。この台風の上陸よりも確実に、死は生命あるものを何の前触れも無く襲うのである。死にたいする不安、恐怖を払いのけ、毅然と死に直面し、死とは一体何であるのか、どう対処するのかを確定しておかねばならない。
<人間とは何か>
こうした生の始まり・誕生と、生の終わり・死の間に横たわる人生とは一体何であろう。この解答を得るためには、この人生を担う主体である人間とは一体何であるのかという疑問を先ず解かねばならない。この人間観の探求が、人間の生の意味を把握するための、第1の軸になるものである。
西洋思想の伝統においては、近代にいたり、この問題に真正面から取り組んだ思想家の一人として、M・シェーラーがあげられる。
西洋思想の伝統におけるこれまでの人間観をM・シェーラーは「人間と歴史」という論文で提示している。(11)この論文が書かれたのは1920年代であるが、「現代ほど人間の本質と起源に関する見解が曖昧で多様であった時代はない」(12)と当時の混迷した思想状況を伝えている。1990年代の現代においても、諸文明の時代あるいは価値観の多様化といわれ、思想状況としては余り変化がないように思われる。むしろますますその混迷の度合いが増していると言っても過言ではないと思われる。
シェーラーは人間の本質と本質構造に関する哲学的人間学が切実に求められているという。この哲学的人間学とは、全体論的に人間を把握しようとするもので、自然との関わりから、世界内での人間の位置、人間を動かす諸力、権力構造、そして人間の本質と発展可能性に及ぶものである。このような人間学だけが、人間を取り扱う科学に哲学的基礎を与え、明確な目標を与えることができるものであると明言している。(13)
人間とはなにか。これは洋の東西を問わず人間にとって千古不易の課題である。仏教においても、同様である。「仏道を習うということは自己を習うことである」(14)と端的に述べられているように、人間己れ自身の探求こそが、仏教の第一歩の始まりなのである。
シェーラーは、人間とはなにかに関する確固たる認識を再び獲得しようとするならば、一度この問題に関する一切の伝統を完全に白紙に戻し、距離をおいて注視する以外に方法はないとする、しかし、この人間観は、伝統的なカテゴリーが無意識のうちに拘束している領域である。従って、なしうることはこれらのカテゴリーがどんなものかを正確に知ることを通じて克服することであるという。(15)
西洋思想の伝統におけるそれらのカテゴリーは、人間に関する五つの基本理念として提示されている。
(1)ユダヤ教キリスト教による有神論的理念
(2)ギリシャ人の発明による「叡知人」の理念
(3)実証主義的な「工作人」の理念
(4)「デイオニユソス的人間」の理念
(5)「無神論的人間」の理念
それぞれの人間に関する理念の要旨は以下のごとくである。
(1)有神論的理念(16)
人格神による人間の創造からはじまり、1組の男女からの子孫、楽園の状態からの堕罪、そして神の子による救済、および多彩な終末論から成る。予想以上に強力な影響力を有している。
(2)「叡知人」の理念(17)
人間と動物一般との間に仕切りを設ける。人間という種にのみ帰属する動因すなわち理性があるとする。
理性の詳細な規定として、
1 人間は自分自身の中にある神的な動因をもっており、これはあらゆる他の自 然がその担い手となることができないもの。
2 この動因は、世界を世界たらしめているものと存在論的に同一のもので、世 界を正しく認識できるもの。
3 この動因は人間が動物と共有している衝動や感性を伴わない場合にも、その 理念的内容を実現する力をもつ。
4 この動因は、歴史・民族・階級の相違を越えて絶対的に恒常的である。
しかしこの理性という概念はギリシャ人の発明になるものにほかならないが、余りにも自明として受け取られている。身体と霊魂の二元論となるものである。
(3)「工作人」の理念(18)
「叡知人」の理念とは相いれないものであり、自然主義的、実証主義的、後には実用主義的な教説を指す。人間と動物とを分かつ本質的な相違はなく、段階的な差異があるに過ぎないとする。人間は「衝動的存在者」であり、いはゆる思惟する「精神」なるものは、人間以外の生物のうちに働いているものと同じで、ただそれらの働きの結果がより複雑であるに過ぎない。人間とは、記号(言語)や道具を使用する工作人であり、脳髄の動物である。
ここまでの三理念に共通する考え方として、人間の歴史は単一であり、その展開は有意味であり、歴史はある偉大な崇高な目標に向かう肯定さるべき運動であるとみなされている。
(4)「デイオニユソス的人間」の理念(19)
従来の西洋的な感受性と思惟の一切を震憾させうる理念である。人間とは、発展可能な真性な生命的諸性質や生命的諸活動の単なる代用品に過ぎないもの(言語、道具など)に基づいて、生命の基本的価値を遺棄するものである。
理性とは、「生きんとする意志の否定」の一様式である。人間は、特定の進化の道を歩んでいた生命が陥った袋小路である。受容したエネルギーを脳髄のために大量に消費する、「大脳皮質の奴隷」であり、そのこと自体が疾患となっている。特殊な技術的手段を用いて、暴虐者である精神を排除し、生命そのものと一体感を、統一を取り戻そうとする。
(5)「無神論的人間」の理念(20)
ニーチェの「超人」がこの説の情緒的出発点である。人間の自己意識を、目も眩むような高みへと引き上げる。超人とは責任を負い、進んで責任を負う唯一の者であり、存在そのものの至高の価値の頂点にある。「誠実さと責任の要請的無神論」ー人間の責任と自由の任務のためには、神は存在してはならず、また存在すべきではない。神がある計画にのっとって創造した世界では、倫理的存在者としての人間は否定される。超人とは、超神であり、神の死を正当化しうる唯一の者である。そして、それは最大限の責任意志・充実・純粋さ・洞察・権力を所有する人格そのもののことである。
上記のごとく、ここに提示されている5つの人間類型は、たんに西洋の歴史上こういうものがあったと羅列しているわけではないであろう。シェーラーは、哲学的人間学の基礎となる人間観を求めるために、カテゴリーとして距離をおいて認識するために5つに類型化し提示している。しかし、明確な形では、シェーラー自身の結論を述べてはいない。
徳永恂(敬称略)は、次のような解釈を与えている。「おそらく彼は、表立っては言ってはいないけれども、一定の観点に基づいて、この5つの類型を体系的に構成しているのではないだろうか。・・・つまり形式的には、1から5へという順序ではなく、3が中心で、その両側に1の否定が5、2の否定が4という形で、左右対象の図柄になっているのではなかろうか。内容的に言えば、『工作人』つまり欲望から出発し、技術的手段の案出によってそれを充足し、その充足度の向上を進歩と考えてきた人間、ほかならぬ近代文明の担い手である人間、これがシェーラーにとっての現代人であり、それを克服することがシェーラーにとっての課題なのだ。しかしそれを克服するためには、1の有神論はすでに5によって否定され、2の合理主義は4の非合理主義によって否定されている。だから伝統的価値の復興とは別の形で、空しい欲望の中で自足している現代人を何らかの意味での宗教性(シェーラーの場合は、人間のうちなる永遠性を見る救済知)へ導くこと、それがシェーラーの目指す目標であり、一見無雑作に並んだ5つの人間類型の背後に隠された秘められた図柄なのだ。」(21)
確かに、産業革命以来、科学技術の飛躍的の進歩の結果、大量生産大量消費と言う人間の欲望を肥大化させ充足させようとする、物質文明が謳歌し、そうした近代化という流れのなかで、人間は行く手の目処も立たないまま、欲望の波間に漂っているということは事実であろう。
この衝動・欲望に基づく人間観と、東洋思想の一つである仏教の人間観は通じるものがある。仏教においても、人間は無明・煩悩の存在として、無知による衝動・欲望が、人間存在の根底にあることを指摘する。ここでは、この人間観についてこれ以上考察を続けることはしないが、今後の課題として、東洋の思想史からも、人間観を提示し、上述の五つの人間観と突き合わせ、人間とは一体何であるかを吟味検討しなければならないであろう。
<「意味」の意味について>
次に意味の問題に考察を移したい。
意味とは一体何か。広辞苑によれば、大きく二つに分けてある。第1は、ある表現に対応し、それによって示される内容で、この内容はさらに二分され、イ、言語によって示され、表される内容、またはその指し表し方の型、わけ、こころもち。ロ、言語・作品・行為など、何らかの表現を通して表され、またそこから汲み取れる、その表現のねらい・かまえ・こころ。第2の意味は、物事が他との連関においてもつ価値、重要さとある。
生の意味を探求する場合も、第1と第2の意味を含めて考察していくこととなる。すなわち、人間の生という現象(一つの表現形式)に対応し、それによって示されている内容は一体何かという問題であり、第2に人間の生が他との連関において持っている価値とは一体何かという問題である。
第1の問題は、すでに現象の奥にある、実在を想定しているようにも受け取られが、私自身はそうした先入見を抱いているわけではない。第1の段階としては、あくまでも、「事実をして事実を語らしめる」姿勢である。まずは第1の問題に関してどのような所論が展開しているかを比較思想論的に考察することがねらいである。
意味の問題を考察することは、言語の領域に属することである。こうして思索すること自体、言語でなされたいるという事実がある。それも自分が一番慣れ親しんだ言語である。ここで、さらに探求を深めていくうえで、明確にしておかねばならない問題が浮上する。それは、言語と事物との関係である。この問題は、すでに普遍論争という表現で、思想史上重要なトピックとなっている。しかし、この言語と事物との関係の問題は、中世以前にすでに古代においても考察されてきたものである(22)。ここでは、紙面の都合上、詳細な論議は別の機会に譲ることにするが、人生の深みの重要課題を扱う問題は、名目論的観点も概念論的観点もとることはできないということはすでに指摘されている。(23)
<「生の意味」の把握について>
意味とは何かということについて考察を進め、問題点を指摘してきたが、次の段階で考察せねばならないのは、「生の意味」はどうすれば把握できるのかということである。
「生の意味」は発見するものなのか、それとも解釈することにより生みだされるものなのか。発見とは、世間にまだ知られていない、物事の存在(価値)を初めて見つけだすことである。まだ世間には知られていないものではあるが、既存のものを見つけだすことである。しかし、解釈は創造性を本質とする。新たな理解を加えることである。
一般的にある表現の意味というものは、その表現がどのような状況のもとに置かれているのか、あるいはどのような文脈で使われているかに応じて変化するものである。こうした一般論に従えば、人間の生の意味も、その生をどのような状況、文脈で把握するかによって変化するものであると考えることができる。では人間の生の意味におけるその状況、文脈とは何か。
空間と時間の枠があるように思われる。空間の枠とは、個々人が置かれている場のことである。(24) 社会としての最小単位として家庭、そして地域社会、その統合体としての国家、国家と国家との国際社会(世界)。さらには、太陽系、銀河系、宇宙へと広がっていく。
時間の枠としては、過去、現在、未来の枠組みがある。過去といっても、歴史時代、先史時代と奥行きがある。さらには、科学技術の進歩にともない、地球を含め、宇宙の誕生と生成の神秘の歴史にも踏み込んで行けるようになった。どこまで視野におさめるかのよって、過去の枠組みは決められる。現在は、今のことである。この今をどう受けとめるか。この一瞬、一瞬の連鎖をどこまで真摯に受けとめられるのか。未来の枠組みとしては、近未来の予測を始め、はるか遠い将来の太陽系、宇宙の終末についての予測、さらには、時間的な次元のみならず、将来に対する希望、願いといった心理的要素も織り込まれてくるであろう。また前世、現世、来世といった輪廻転生の考え方も、この時間枠に含まれるものであろう。
こうした時間と空間の全体の枠組みのなかで、その部分である人間の生の意味が決定される。全体と部分との関係のなかで、はじめてその部分の持つ意味が決められる。これは「全体と部分との交互規定」と言われている。(25)こうした観点から考えると、全体を何処に置くかによって、部分の位置づけが変化することになる。
空間の枠と、時間の枠をどこまで広げ、全体を構成するか。この全体観によって、人間の生の意味が決定されてくると考えることがより妥当性を持っているように思われる。繰り返しになるが、全体観は人間観を基軸に時間と空間の座標軸を持ち、その交点に人間の生の意味が描き出されるということになろう。
しかし、決定されるという表現は的確ではないかも知れない。なぜならば、全体と部分の構成は人間の意識内において構成されるものである。それゆえ、部分の意味は理解され、解釈されて決定されるといったほうがより正確であろう。
こうした観点から見てみると、生の意味は本来的なものではなく、人間の努力により創造的に解釈するものであるともいえる。しかしながら、そういえると判断するのは、人間の有限な能力の側からであり、かりに絶対者、あるいは普遍的真理が実在するとすれば、人間の生の意味は本来的に設定されているが、人間の有限な能力では、一挙に発見し到達することができないということである。
この場合における全体とは、宗教的な意味で絶対的実在である。それは神と表現され、仏と表現されている。あるいは、中性的に真理とも表現されている。(26)神であれ、仏であれ、真理であれ、その絶対的なものへ何らかの方法により到らねば、人間の生の意味はつかむことはできない。ここに宗教における、「信」の必要性が出てくるのである。有限な能力しかない人間にとり、可能なことは、信じることが残されているということなのであろう。理性的な哲学的な教理を持つ仏教においても、「信を能入となす」(27)といわれている。また大乗仏教のもっとも重要な経典の一つである法華経においても、仏弟子中智恵第1といわれた舎利弗でさえ「汝舎利弗、尚お此の経に於ては、信を以て入ることを得たり」(28)と信の第一義性を強調している。
仏教の場合は、仏と法と僧の三宝に帰依し、修行を積み重ねることにより、悟りに到ることができる。帰依とは帰命ともいい、絶対的な信を意味する。悟りを得る方法として、漸悟と頓悟とあるが、どちらにしても、悟りを得なければ、真の意味で、人間の生の意味を把握することはできないであろう。
啓示の宗教においては、神からの啓示にうたれなければ、真の意味で、人間の生の意味を把握することはできないであろう。
宗教における信についても、純粋な素直な信は、たやすく狂信につながる危険性が控えている。それゆえ、信においても、理解する努力、思索、研鑽、実践を通して、信を確かめ深めることが必要である。ここにおいても、有限なる人間の側からの努力は必要不可欠であるといえる。
<まとめ>
これまで、人間の生の意味はどのような観点から考察すれば、導きだされ、把握できるのだろうかという非常に大きな疑問を、拙い推論であるが重ねてきた。要約してみると、人生を担う主体であるところの、人間について、つまり、人間観と、その人間が置かれている空間的枠組みである場観、そして時間的枠組みとしての歴史観を含めた、全体観からである。人間とは一体何であるのか、次に人間の具体的現実のあり様から、場での位置づけである。場とは、家庭、社会、国家、世界、さらに宇宙へと広がりをもつ。さらに時間的次元として、宇宙の生成、終末をも含めた、歴史観の問題である。これら全体の全体観、つまり「世界観」(29)から人間の生の意味は解釈され導きだすことができると思われる。それを敢て図に表現するとすれば、次のようになるであろう。全体の球が、世界観であり、その地軸に人間観、それと直角に交差する横軸には時間と空間の2本の直角に交差する軸がある。これら3本の軸の交点が、今、ここにおける人間の生の意味が解釈され実践される契機となるところである。 上記のごとき作業仮説を設定し、それに従い今後の思索と実践を重ねることになるが、次に掲げる表は、これまでの所論を基礎に峰島旭雄(敬称略)の提案する8項目(30)を参考にし、さらに詳細に項目を分け、まとめたものである。
<表を挿入する>
思索レベルとして、人間、場(家庭・社会・国家・世界・自然宇宙)、歴史の枠と、その根底に世界観の問題を据え、それぞれに人間の生の意味を探求するうえで、必要と思われる思索すべき主要項目をあげてある。その項目の中には、現代的文脈の中で、具体的な生の意味を考察するうえで必要と思われるものも、含まれている。しかしながら、この表は決して最終的なものではない。今後修正を加えていき完成されたものにしていく段階のものである。その上に、主要項目の一つを取り上げても、取り組み始めたら長い年月を要するものであり、へたをすれば、一生かけても解決は望めないものであるかも知れない。こうした営み自体到底不可能であると叱責を受けるであろう。しかしながら、人間の生の意味、ひいては己の生の意味を知りたいという衝動は、専門化に陥らないで、全体論的に求めていかなければ、解消されえないのである。これは、敢てチャレンジしてみる価値は十分にあるのではないかと思われる。複雑化し専門分化した現代社会において、全体論的に人間の生の意味を探求するとはかくも難しきことであるという証左であろう。まだまだ思索の端緒に就いたばかりであり、不備不足な点が多々あると思われるが、浅学の故とご寛恕頂きたい。皆様方のご批判、ご叱正をこころからお待ちする次第である。
注
1大山「人間の生の意味の探求(1)」『中央学術研究所紀要』
2『哲学事典』「生の哲学」698頁 平凡社 1968年
3第一義的には、肉体の生命を指す。生命現象を成り立たしめている諸々の力をもっとも広義の意味での「いのち」とするが、ここでは狭義の意味で使用する。
4一卵性双生児の誕生のメカニズムについては、一個の精子と一個の卵子とが、受精し、この受精卵が発育・分化する途中に、おそらくは胚子の時期に、今日なお不明な原因により、2個の個体に分れるという。
5『驚異の小宇宙 人体ー生命誕生』40頁 日本放送出版協会1989年
6人間の生死観に関する詳細な「比較思想」的考察は、別の機会に譲る。
7強姦等本人の意志に反して妊娠した場合、あるいは、妊娠の維持が母体の生命 にかかわるとき
8本間三郎『人間の脳』14ー15頁 浅倉書店 1989年
9前掲本『驚異の小宇宙 人体ー生命誕生』90ー91頁
10金岡秀友『死』東京堂出版1975年
11M・シェーラー『シェーラー著作集13』「人間と歴史」128ー165頁
12シェーラー 前掲本 128頁
13シェーラー 前掲本 128頁
14『道元』121頁 1983年 中央公論社
15シェーラー 前掲本 129頁
16シェーラー 前掲本 134ー135頁
17シェーラー 前掲本 135ー141頁
18シェーラー 前掲本 142ー149頁
19シェーラー 前掲本 150ー160頁
20シェーラー 前掲本 161ー165頁
21チャンダナNo132 3頁 中央学術研究所所報1990年11ー12月号
22中村元『古代思想』251ー278頁 1974年 春秋社
23ボーヴォワール『老い』331頁 人文書院 1972年
24ここで言う場とは、客観的なものではなく、心理学的な意味において把握された場である。
25シュライエルマッハーが最初に定式化したと言われている。「どんな場合でも完全な知識は、この見かけのうえの円環の内にある。すなわち個々の特殊なものは、それが部分をなしている一般的なものからのみ理解されうるとともに、その逆でもある、という円環の内にある。」『現象学と解釈学』18ー19頁 1988年 世界書院
26それぞれの宗教に応じて呼称は様々である。
27「仏法の大海は信を能入と為し、智を能度と為す」龍樹 大智度論 『国訳一切経 釈経論部 一』20頁 1981年 大東出版社
28『訓訳妙法蓮華経併開結』110頁 1973年 平楽寺書店
29世界観は、世界全体に対する主体的、実践的な統一的理解をいう。この意味で世界像とは異なる。世界像は、自然科学を通して得られる客観的自然的世界である。
30峰島『比較思想をどうとらえるか』27ー28頁 1988年 北樹出版
31ここにあげた6つの疑問は、バートランド・ラッセル”A History of Western
Philosophy" Pxiii 1972 A
Touchstone Bookを参考にあげた。