「啓蒙の弁証法」
非常に難解な書物である。一文一文に深い思索が結晶のように凝縮されている。そして一語一語に切なる思いが込められているようでもある。
これはフランクフルト学派の祖である、アドルノとホルクハイマーの両者により共同執筆された著書である。これまで、幻の名著と言われてきたが、昨年、阪大の徳永教授により邦訳された。
近代の啓蒙思想である科学の陥穽をのぞき見ることができ、科学主義を超克し、新たに真理の探求の道に踏み込む決意をもたらすものである。啓蒙の弁証法的な内部構造を、鮮やかな切り口で提示している。
現代教育の科学主義、知育偏重 人間に与える影響 何故そうなっているのかを理解させてくれる。
啓蒙と神話という二つの相対立する概念を、対立しているのではなく、神話の中にすでに啓蒙が内在しており、啓蒙は何時神話に転化するかも知れない可能性を内在していることを明確に示す。
訳者あとがきより
1947年出版 1939年から44年にかけて執筆
39年以降書き留められた二人のメモをもとに、42年以降両者の共同討議が行なわれ、44年春までに脱稿。
1939年 ナチス・ドイツのポーランド侵攻 第2次世界大戦
1944年 連合国軍の反抗が始まり、大戦の帰趨が定まりかけた時
序文
メインテーマ
何故に人類は、真に人間的な状態に踏み入っていく代わりに、一種の新しい野蛮状態へ落ち込んでいくのか。
近代科学の営みのうちでは、偉大な発明は、理論的教養のいや増す崩壊という代価を払ってあがなわれる。
いかなる意味か。偉大な発明とは、理論的教養とは。
専門科学の学説の批判に立ち入らない限り、問題はないと思っていた。伝統的諸学科(社会学、心理学、認識論)をより所とするはず。
学問の伝統が、実証主義を奉ずる清掃業者の手により、無用のガラクタとして片付けられているところでは、まだ学問的伝統を注意深く育成、吟味することが、認識に欠くことができない一契機となることもある。
しかし、学問の意義は、市民的文明の崩壊という現代の状況に於ては、疑わしいものとなっている。
市民的文明とは何か。
<ナチズム=啓蒙の自己崩壊> に直面
思想が商品、言語がその宣伝となるような状態
この堕落過程の行方の探求は、現行の思想上、言語上の要求と決別せねばならない。
思想というものは、体制的なるものを批判する可能性は備えているが、無批判的な体制の道具に堕してしまう恐れもある。それは否定的なもの、破壊的なものへの変貌である。批判が同調へと変身をとげることによって、理論の内容もそのままではありえず、そこに含まれていた真理は霧消してしまう。
<思想が教条化されたとき、それが引き起こす事態>
言語プラス社会的諸機構 検閲機関となる 内と外からの検閲が完備し、抵抗の手段が奪われている。
啓蒙的思想は、その具体的な歴史上の諸形態やそれが組み込まれている社会の諸制度のうちばかりでなく、ほかならぬその概念のうちに、すでに、今日至る所で生起しているあの退行への萌芽を含んでいるのである。
啓蒙がこの退行の可能性を自己反省しないならば、啓蒙は自己自身の使命を覆ってしまうことになる。また、進歩の破壊的側面を自己反省できないまま、思想が実用主義化するとき、真理への関わりをも失うことになる。
技術的に教育された大衆が、
専制主義の魔力に飲み込まれ、民族主義的な偏執狂へと自己破壊的な雷同のうちに、そして、あらゆる不可解な不条理のうちに、
これらは、現代の理論的知性の持つ薄弱さを明らかにしている。
これからの断片的考察でもくろまれているものは、この理論的知性への寄与であり、つぎのことを示すことにある。
啓蒙が神話へと逆行する原因は、
国家主義的、異教的等の神話にあるのではなく
真理に直面する恐怖に立ちすくんでいる啓蒙そのものにある
この場合の啓蒙と神話の概念は;
その精神面と現実面の両面で理解される必要がある。
真理とは、たんなる理性的意識ではなく、その現実における形態にほかならない。
今日の人間が陥っている、自然への頽落とは;
社会の進歩と不可分
経済的生産性の向上の二義性
より公正な世の中のための条件を作り出す
技術的機構とそれを操縦する社会的諸集団に強大な支配力を与える
精神が物象化され、固定化され、文化財となり消費目的に引き渡され ている状況
このような状況では、幸福をもたらすはずの財がかえって不幸を招く。ファシズムが台頭し、国際的脅威となっており、進歩は退歩に姿を変える。
工業化とそれによりもたらされたものが形而上学となり、現実の害悪を隠蔽するイデオロギーのカーテンとなるとき、これは決して見逃してはならないものである。ここに、この断片的考察の出発点がある。
第1論文
あとに続く論文の理論的基礎
合理性と社会的現実との絡み合い、またそれと不可分の自然と自然支配との絡み合いの解明。
批判的部分のテーゼ
1 すでに神話が啓蒙である。
2 啓蒙は神話に退化する。
第1補論では、神話と啓蒙との弁証法を追及。犠牲と諦めの概念を手 掛かりに、神話的自然と啓蒙された自然支配との差別と統一が浮き彫り にされる。
第2補論では、カント、サド、ニーチェという啓蒙の完成者を扱う。 あらゆる自然的なものを自己支配的主体の下へ隷属させることが、いか にしてついには他ならぬ盲目の客体的なもの、自然的なものによる支配 において極まるかが示される。
「文化産業」では、啓蒙が映画とラジオのうちに典型的な表現を見い だすようなイデオロギーへと退化していくことを示す。
「反ユダヤ主義の諸要素」では、啓蒙された文明が現実には未開・野蛮へと復帰することを取り扱う。
大方の狙いは弁証法的人間学にある
啓蒙の弁証法 研究ゼミ 1991-02-22
第1章 レジュメ 報告者 大山
I 啓蒙の概念
あとに続く論文の理論的基礎
合理性と社会的現実との絡み合い、またそれと不可分の自然と自然支配との絡み合いの解明。
批判的部分のテーゼ
1 すでに神話が啓蒙である。
2 啓蒙は神話に退化する。
(一)
啓蒙とは、もっとも広い意味として、進歩的思想。
その目標は、人間から恐怖を除き、人間を支配者の地位につけるということ。
しかし、啓蒙されたかに思われた世界は、忌まわしい兆候が満ちている。
啓蒙のプログラムは、世界を呪術から解放し、神話を解体し、知識により空想の権威を砕くこと。この意図はすでにベーコンのうちに見いだされるもの。
彼は、人間の優越性は知識にあり、発明にあるのではないという。知識のうちには、金や、命令などでは自由にならない、数多くのものが蔵されているとする。
ベーコンが求めた人間悟性と事物の本性との結びつきは、家父長的であった。
すなわち、
迷信に打ち勝つ悟性は、呪術から解放された自然を支配しなければならない。 知の力には制限がなく、技術がこの知識の本質となっている。この知識は、方法 であり、他人の労働の利用であり、資本である。それは、自然と人間とを完全に 支配するために自然を利用するだけである。
世界の呪術からの解放とは、アニミズムの根絶である。
最近の論理学は、人間の言語を贋金と見なす。概念を公式に、原因を法則と確率にとりかえる。
形而上学の遺産のうちに古い諸力を再認し、普遍概念の真理性の要求を迷信として指弾。さらに、一般概念の権威のうちにデーモンにたいする恐怖が読み取れるとする。
最終的には、計算可能性や有用性という基準が絶対のものとなる。啓蒙は際限無く自己運動を始めることになる。なぜならば、それに対立する神話のうちに啓蒙が認識されるからであり、つまり、そこに破壊的合理性の原理が見て取れるからである。
古来、自然を人間化する見方(擬人化)のなかに、啓蒙が神話の基礎となる契機があったとする。つまり、超自然的なものは、自然的なものにおびえる人間の鏡像。
そこで啓蒙によって承認されるのは、統一を通じて把握されるものだけである。啓蒙の理想は、演繹可能な体系であり、それは合理的、経験的とを問わない。ベーコンのいう「一つの普遍的科学」が目標。
形式論理学とは、統一化を教えるもので、世界は計算可能であることを説く。数が啓蒙の基準となり、それは市民的正義、商品交換をも同様に支配している。
市民社会では、等価交換原理が支配しており、多様性を抽象的に数量化し、比較可能なものとしている。そうできないものを詩の領域へ追放しさる。それは神々と質との破壊に導く。
しかし、破壊された神話自体啓蒙が造りだしたものである。神話とは報告し、名付け、起源をいうものであるが、事象が科学的に計算されるものとなると、神話は叙述し、確認し、説明を与えるものとなる。
哲学の進歩につれて、存在はモナドに収縮するロゴスと外部の事物の集積へと分裂する。現存在と客観的現実と分かたれ、世界は人間に仕えるようになる
神話は啓蒙へと移行し自然はたんなる客体となる。しかし、そこでは人間は自分が力を行使するものからの疎外という代価をはらうことになる。
人間が神の似姿となることにより、自己の同一性を獲得する。自己は他のものに解消されえないものとして、しっかりと所有される。これが精神の同一性であり、そこでは、自然は質を失った形で統一される。
科学においては、事物は普遍的な代替可能性へと転化する。つまり、 抽象化され均質化され類例となる。
「世界支配の可能性への揺るぎなき確信」これが科学が目指しているものであり、そのためには、対象物に対する思考の自立化が必要であった。
太陽を頂点とする家父長的神話は、言語によって組織だてられた総体であり、そこには真理要求が含まれている。それは、それ自身啓蒙であることを意味する。
この神話の言語的組織化そのものが、啓蒙の進展過程の動因となっている。
神話に見られる個々の理論的見解は、啓蒙が進展するにつれて、単に信仰に過ぎないと批判される。その結果、精神、真理、啓蒙の概念さえアニミズム的呪術になりさがることになった。
神話における、宿命的必然性の原理は、形式論理の厳密さへと純化され、西洋哲学のみならずあらゆる諸体系を支配するようになる。即ち、神話化の過程を辿る。
また、内在の原理、個々の出来事を反復として説明するもので、神話そのものの原理でもあるが、この反復は、循環の考え方となり、自然法則のうちにそれを対象化する。そして人間の主体性の自由という幻想をうみだすものとなる。
異なったものがあっても、均一化される。この同一化は、自己との非同一化という代価であがなわれる。
啓蒙は通約しきれないものを切り捨てる。思考のうちで質的なものが消失するだけでなく、人間は現実に画一化される。市場経済 市場の商品に合わせて、自分を規格化する。他人と同質的な自己となるために区別された自己として付与されている。
自由主義の時代においては、この自己は啓蒙により社会的圧迫を受けることとなる。と言うのは、操作された集団の統一は、個々人の否定のうちに成り立つからである。ここに個々人を個人たらしめることができるような社会にたいする嘲がある。
自然における一切を反復可能なものと化す抽象的なものの支配と、支配が自然における一切をそのために整えてやる産業の下では、すべてが水平化され、結局解放された人々自身が、「群」になってしまった。
注) 「群」とは: (ヘーゲル精神現象学)
啓蒙が信仰と戦って広めた原理が有用性だがこのように人間にとって万物が有 用であるのと同様に、人間自身もまた有用であり、彼の使命は正しく自分を群の、 公益にかなった、いつでも利用可能な成員たらしめることである。
主体の客体に対する距離とは、抽象作用の前提であり、支配者が非支配者を介して手に入れる自然事物への距離に基礎がある。
最高神の成立 市民的世界の成立と時を同じくする
社会秩序 揺るぎない財産制の基盤の上に築かれる
支配と労働が別々に分化する
概念的統一のなかに、命令によって組織立てられ、自由市民によって規定された生活の体制が表現されている。
世界を征服することで秩序と服従を学んだ自己は、真理一般と区分的思考とを同一視してしまう。
神話、科学が可能になるのは、自然が二重化ー見かけと本質、作用と力ーすることに基づく。この二重化は人間の不安から生まれる。この不安の表現が説明となる。
マナとは、心理の投影ではなく、自然の持つ現実的な優越した力が、未開人の無力感の内へ呼び起こす反響である。ここに生物無生物の区別、デーモンや神が特定の場所に宿ること、主体や客体の分離も基盤がある。
弁証法的思考においては どんなものも、ただそれだけではないものになることにより、それであるところのものになる。
これが概念と事態とを分離して客観として規定するやり方であり、客観化的規定の原形態である。
未知なるものが無い状態が、人間が恐怖から免れることで、それが啓蒙の進む道を規定している。啓蒙は生命あるものを生命なきものと同一視する。その究極の産物が実証主義である。実証主義の純粋内在の立場は普遍的タブーにほかならないこととなる。
神話においても、啓蒙においても等式の原理が働いている。それはカオスから文明への歩みのなかでなんの変更もなかった。ただ文明においては自然の諸関係は人間の意識を通じて力を発揮する。等式そのものが物神化し、法は自由からは生まれはしない。
(二)
言葉の機能には模像と記号がある。祭司たちの教説は、記号と形象とが合体しているという意味で象徴的であった。
模像という機能は、神話へ受け継がれる。神話は反復する自然を念頭に置いている。この反復する自然が象徴的なものの核心であり、永遠なるものである。
神々はマナ的要素を身に付け、普遍的な力として自然を体現していたが、プレアニミズム的相貌のまま啓蒙の中へ入り込んでいく。しかし、それは自己を科学として確立し、神話を幻想的影像にしてしまう。そこでは、学問と詩が分離し、言語の分業が起こる。
記号としての言葉 ー学問 自然を認識するための計算に従事
響き、形象、本来の言語 ー芸術 模像
芸術と科学は、別々の文化領域として対照化する。そこには、相互置換が起きている。科学は、唯美主義になり、記号の体系、ゲームとなる。芸術は、実証主義に身を捧げる。
記号と形象の区別が実体化されるとすると、相互に孤立した原理は真理の破壊をもたらす。
記号と写像 概念と直観 哲学はこの両者の溝の橋渡しの努力に従事したが、たいていの場合は、知のがわであった。
芸術は、世俗の現実から離れたそれ自身の領域をもつ。呪術も同様に、現実への働きかけの断念する。それゆえに、遺産は頑なに保存される。
芸術作品のうちでは、二重化がおこなわれ、事物は精神的なもの、マナの表出として現われる。それが、作品のアウラとなり、絶対性を要求するものとなる。それゆえ哲学はしばしば芸術の優位性を認めることがあった。
しかし、市民的世界では無視された。知識に対し、限界を設けたのは信仰のためだけであった。
信仰とは、欠如的概念である。つまり、信仰と知識とのかかわりにおいて、知識の縄張りを云々することは、信仰そのものが局限されたものである証拠である。信仰が知識と繋がれたままであるかぎり、信仰は知識との分離、すなわち狂信を永遠化する。しかしそれは非真理の斑痕である。
言語が歴史に登場したとき祭司と呪術者が支配者であった。
マナの源泉である戦慄は、聖なるものと認められており、人間により固形化、物質化される。そして、各種の聖なる場に各種の儀礼をつくり、その知識と支配力を拡大する。
最初の遊牧段階でも、権力の領域と世俗の領域とに分れている。
シンボルの質的転換がおこる。意味していた自然の反復は、社会的強制の永遠化であることが判明する。
普遍的諸概念とは、支配のしるしであり、諸概念の従属と連鎖、包摂と連合といった論理的秩序は、社会的な現実、分業の諸関係に根ざすもの。
科学の演繹的な形式は、社会的階層秩序と強制的圧力の反映であり、思考形式の社会的性格は、社会的連帯(デユルケム)ではなく、社会と支配との統一の証拠である。
支配は、社会的に分業へと展開する。分業は全体の自己保存に奉仕する。理性は各部分に分れて執行される。支配は個別者に対しては普遍者として、現実における理性となる。社会の成員の力は、課せられた分業を通じて、全体の実現を増長し、全体の合理性は倍加される。
多数者による少数者の圧倒。社会の抑圧はきまってある集団による抑圧となる。
この集団性と支配との統一が思考形式に沈殿しているのである。この統一は、形而上学的言語であれ、科学的言語であれ、それらの言語が帯びる普遍性のうちに現われている。
科学的言語は、現存するものだけに中立的な記号が与えられることとなり、啓蒙は様々なシンボル同様に、一般概念さえ食い尽くしてしまう。
唯名論運動としての啓蒙は、名称詞、外延のない点としての実体、固有名詞の前で立ち止る。
ユダヤ的宗教において、名辞と存在との紐帯は神の名を口にしてはならないという戒律によって認められている。こうした戒律の遵守から、アドルノの否定の弁証法の中心概念である、「限定された否定」という概念が導きだされる。
参照 訳注[24]
ヘーゲルは、この概念によって、実証主義的崩壊と啓蒙とを区別する要素をとりだしてみせた。しかし、ヘーゲルは、否定の総過程の既知の成果、体系と歴史における全体性を絶対者に仕上げることによって、神話へと転落する。
*ここに(p30)おいて始めて仏教の空の思想が表現されているが、浅い理解と言わざるを得ない。なぜならば、まず空は無ではない。それは、現象の否定ではない。既存のものの無差別な否定では毛頭ない。むしろ現象は、無常であり、無我として生成するものとして肯定されており、ただ執着する対象ではないことを、明示するために、空とする。この空に執着することも禁じられる。空を空ずこととなる。こうした仏教の考え方を、天台は空・仮・中の三諦とする。
実践的には、絶えず空ずることとなり、この「限定された否定」という概念と通じるものがあるように思われる。AはAでないがゆえにAである。これは、仏教論理である。
こうした事態は啓蒙の上にも起こる。 理由は啓蒙はいかなる体系にも劣らず全体的だからである。啓蒙の非真理は、過程はあらかじめ決定されているということの中にある。
啓蒙は思考と数学とを同一視する。自然は数学的多様性となる。そして思考は物象化され、自動的過程となり、その過程が創りだした機械を手本にする。そして機械がその自動的過程にとって代わる。啓蒙は、実践に指針を与えるということから逸脱しようとする。
思考は道具と成り下がる。こうした実証主義において、物象化した思考は神の存在への問いさえたてることができないものとなる。そうした形而上的なものは認識としてパスさせない。
自然支配の圏内に純粋理性批判が思考を閉じ込めた。その思考する主観に残されているものは、「先験的統覚」としての「我思う」だけとなる。
主観と客観は空虚になる。抽象的な自己と抽象的素材のみで、それは属性のない基体となる。
思考を数学的装置へ還元することは、その装置に固有の尺度として世界を認めることを含む。あらゆる存在者を論理的形式主義へ従属させることは、直接目の前にあるものへ、理性を従順に服従させることになる。
認識のもつ全体的な要求、つまり、所与を社会的歴史的人間的意味が展開されて初めて自己を充実する媒介された概念の契機として考えることを放棄することになる。こうした要求は、その都度の直接的なものの「限定する否定」のうちでこそ充たされる。
希望がないのは現存在ではなく、映像としてのシンボルないし数学的シンボルのうちに、現存在を図式として我がものにし、永遠化する知識である。
啓蒙された世界では、神話は世俗の領域へ入り込んでいく。
現存在は、その自然性において、非合理的性格を帯びる。厳然たる事実という称号のもとで、社会的不正は不可侵のものとなる。支配したものからの疎外と、精神の物象化に伴い、人間の関係が狂ってくる。個々人は期待役割と機能を担わされたモノとなる。
産業主義が心を事物化する。商品が物神化する。そして、社会生活が硬直化し、規格化された行動様式だけが理性的なものとして押しつけられる。
個人は事物化し、統計的要素となり、成功か失敗かを問われるだけのものとなる。自己保存と、同化だけが尺度となる。それ以外は圧力を受けることとなる。
しかし、集団のもとにある権力、集団の残虐性は人間の真の性質を現すものではない。事物や人間の悪魔的に歪んだ形姿は、支配の原理をさししめしているのである。
(三)
自己保存が、徳の第1の、唯一の基礎となる。
自己とは、超越論的、論理的な主観であり、行為に対する立法法廷たる理性の基準点となる。衝動は神話的なものとなり、それに従うことは錯乱とみなされる。
自己保存の過程が分業により強化されると、技術的機構に合わせて心身の形成を図らねばならない個人の自己疎外も強化されることとなる。
それに対応するため、この主観すら、外見上廃止され、自動的な秩序のメカニズムに取って代わられる。それは、ゲームの規則の論理学へと揮発し、主体が物象化し、変貌して技術的過程となり、理性が経済機構の補助手段と成り下がる。目的志向のみとなる。
論理的法則には排他性があるが、究極的には、この自己保存の強制的性格から由来する。
啓蒙された精神はあらゆる非合理的なものを破滅へ導くものという烙印を押す。
命令を下す少数者は、全体の生活を、かれ自身を保存するための要求に従わせることにより、自己自身の安全と全体の存続を保証する。
これまでの西欧文明の転回点においては、人間の内と外の自然の支配が生の絶対の目的とされた。しかし、自己保存が自動化されるの及んで、理性は解任されるに至る。
啓蒙の本質は二者択一で、その不可避性は支配の不可避性であり、自然を自己のもとに従属させてきた。市民的商品経済を発展させ、その計画する理性は、その氷の様な光線のもとで新しい野蛮を生じさせる。支配の強制のもとで、人間の労働は再び神話の圏内へ戻される。
ホメーロスの物語 オデユッセイアの巻12において、生と統一性、人格の同一性と、自我の喪失の問題に関し、啓蒙の弁証法を予感させるアレゴリーを表現している。
代理可能性が、支配の尺度となっており、もっとも多くの役柄において自分の代理をつとめさせる者が最大の権力者である。しかし、労働からの除外をともない、本性を失うことになる
熟練と知識は分業により分化してきたが、同時に人間学的には原始的な段階へ押し戻される。支配の持続は、生活を楽にさせるが、抑圧により本能の硬直化をもたらし、想像力は萎縮する。
進歩の力への適応の中には権力の進歩が含まれている。そこでは、進歩が退歩となる。
この退歩は、感覚的世界だけでなく知性にも影響を与える。感覚的世界を支配するために区別された知性、そしてこの知的機能の統一化は、思惟と経験との双方の貧困化を意味する。
思考を組織と管理に限定することは、上に立つものが習い覚えた知恵であるが、こうして精神は、支配と自己制御の機構となる。
質を消去して機能へと換算することは、労働様式を通じて、科学から一般大衆の経験世界へと伝染する。
自分の目と手で、聞き、触れることのできない無能さに大衆の退歩が現われている。 人間は、強制的に管理された集団性のうちで、孤立化することにより、互いに平等なたんなる類的存在となる。社会における労働条件が、画一性を強制する。
労働者の無力は、支配するものの謀略と産業社会の論理的帰結である。
この論理的必然性は究極のものではない。それは支配の反映であり、道具として支配に束縛されている。
思考の力は、自分自身の疑わしさを指摘することができる。
定住し商品経済に入って以来、支配は、法則と組織へと物象化し自己を制限せざるを得なかった。そして道具が自立し、精神は経済的不公正を和らげる働きをする。支配の道具はすべての人の手に収められることとなり、手段の客観性は支配への批判を含む。
疎外された理性は、硬直化した思考を、生命力あるものにし、真に主体あるものにする社会を目指している。
しかし、思考は、今日、支配者の手により、たんなるイデオロギーとして否定されている。
合成力としての社長の意識的決定が、資本主義の運命を執行する。客観的な市場の法則はない。被支配者は、生活基準が高められる発展を甘受し、一段と無力化の道を辿る。多くの大衆は、体制に役立つ資源として訓練され、飼いごろしにされる。管理社会の、抗しがたい必然性であると思い込む。
上は財界から、下は暴力団に至るまで、同様である。ボスは自分の地位が奪われることにびくびくし、メンバーは感情を害しはしないかと恐れる。
自然の暴力から体制の暴力へと移る不条理さは、理性を陳腐化する。この不条理の必然性は、見せかけに過ぎない。しかし支配の道具と成り下がった思考は、その見せかけを見破ることができない。
思考は、自然からの距離をとる。自然を支配するために、自然を自分の前に据える。そして、混沌とした世界を既知の単一的のものと区別する。
概念は観念的な道具でどんな物にでも適用される。思考が、区分機能、距離化、対象化を止めるとき、幻想的なものとなる。神秘的な合一は欺瞞である。
啓蒙が、ユートピアの各種の実体化に対し、支配の分裂の相において、自身を保つかぎり、主体と客体との分裂は、その分裂自体の非真理と真理とのインデックスとなる。
自然は、自己自身と分裂した自然としての精神の自己認識のうちで、自己自身に呼びかけるが、この自然は、不具にされたもの。自然の頽落は、精神の存立に不可欠の自然支配のうちに存する。精神が、自らの本質が支配にあることを自認し、自然のうちへ帰ろうとする謙虚さにより、精神を自然に隷属させていた支配への要求は消失する。
人間は、必然性に対して築いた防壁(様々な制度、自然から社会へと向けられた支配の方法)を、来たるべき自由の保障人として見誤ることはない。
支配を緩和するというこの見通しの実現は、ひとえに概念の働きに依存している。概念は、思考自身の自己省察として、不正を永遠化する道のりの距離を見究めさせる。
主体に内にある自然への追想によって、啓蒙は支配一般に対立する。
啓蒙は自由と自己保存の営みを混同、概念の働きの停止は、偽りに対して道を拓く結果となる。
思考そのものの内部にまで入り込んだ支配を、宥和されざる自然として認識することが、社会主義が永遠性を承認した必然性を和らげることができる。
社会主義は、必然性を認めると同時に、精神を観念論的に至高の地位へ祭り上げ、かえって精神を堕落させる。そして自然は、人間にはよそよそしいものとして全体化され、自由を呑み込んでしまう。
思考は、数学、機械、組織といった物象化した形をとって、思考を忘れた人間に復讐する。啓蒙は自己自身の実現を断念。自由を全体の手に譲り渡した。
社会は人の意識を喪失させることにより、思考の硬化をもたらす。真の革命的実践の成否は、この意識喪失に逆らう理論の不屈さにかかっている。
所与の現状は、民衆が不断に創りだしているものである。民衆の神話的で科学的な畏敬の念が、実証的な事実に暴君の根城となる。
啓蒙は、ロマン主義との関係を断ち、虚偽の絶対者、盲目の支配の原理を止揚するときにこそ、自己自身となる。支配を原理とする科学の目には蔽れている自然が、根源の国々として想起されるときに、啓蒙は自己を完成し、自己を止揚する。
その可能性を眼の前にしながら、しかし啓蒙は、現代に奉仕し、大衆に対する全体的な欺瞞へと転身している。
第2章オデユツセイアあるいは神話と啓蒙
オデユツセイアは啓蒙の弁証法についての証言をあたえるもの
叙事詩、とりわけ最古の層は神話と結びついている
しかし、ホメーロスの精神は神話を「組織だてる」ことにより、神話と矛盾するものとなっている
ヒーローは市民的個人の現像を示す 統一的の自己主張こそそのルーツ
叙事詩においても、意味豊かなホメーロスの世界の荘厳あるコスモスが現われるが、それは、秩序づける理性の成果である それにより、神話は解体されることとなる
この市民的啓蒙的要素の洞察は、ニーチェの初期の著作の流れを汲んだ、ドイツ後期ロマン派の古代解釈による
啓蒙の二重構造
ニーチェの支配に対する啓蒙の弁証法
統治の達人が用いた手段としての啓蒙
デモクラシー 人間を矮小化し統治しやすくすることがまさしく「進歩」であると目標とする
偏狭な洞察は、真実にはならない。Rボルヒアルト抑圧的イデオロギーに奉仕
叙事詩と神話とがもつ共有点 支配と搾取
神話の原型には、欺瞞の契機が宿っている。
ホメーロスの作品 啓蒙と神話との錯綜した関係を雄弁に証言する作品
散乱した伝説を統一した形にまとめること 主体が神話的力から逃れ去る道程を記述することとなる
オデユツセイア 運命と対決し、自我が生き抜いていく姿には、神話と対決する啓蒙の姿が浮き彫りにされている。自己意識に基づいて自分自身を作り上げていく自己が、神話の間を潜り抜けていく道程
交換が犠牲の世俗化であるとすると、犠牲自体、合理的交換の呪術的図式 神々を支配するための企てであり、神々への崇拝のシステムにより、その座から追い落とされる
4/26 第2回ゼミ
現状は非真理である。痛烈な響きをもっている。現状の「限定された否定」である。なぜ非真理なのか。支配の原理によりコントロールされているからである。そこには、人間の自己疎外だけでなく自然の疎外がある。
人間の啓蒙(文明化)の名の下による自然支配により、自然は、傷つき、歪曲され、搾取されてきた。
ここでいう自然には二重の意味で二義性がある。まず第1は、自然の持つ優しい面と恐るべき側面としての二義性である。第2は、外なる自然と内なる自然としての二義性である。この外と内なる自然も優しい面と恐るべき面の両面を持っている。
内なる自然、これはhuman natureでありフロイト的な欲望、および感性、望み、願いといったものである。今までは、この内なる自然が抑圧されてきた。
しかし、近代化の過程は、欲望の肯定と肥大化の時代ではなかったのか。
歴史の進行は、全体性の喪失過程であった。現代は暗黒時代。
6/7 第3回ゼミ
補論II ジュリエットあるいは啓蒙と道徳
啓蒙とは「人間が自分に責任のある童蒙状態から抜け出すこと、童蒙状態とは、他人の指導を受けなければ自分の悟性を使用できないような状態」
理性によって指導される悟性
理性は「一定の集合的統一を悟性行為の目的とする」
啓蒙における道徳的根拠は 宗教に代わる根拠は 規制力ある根拠は
「他人によって指導されることのない悟性」
自己保存は科学の本質を規定する原理
自我は統覚の総合的統一と名付けられたが、自我は、物理的存在を成り立たせる条件であると同時に、物質的存在から産み出された産物
10/07第4回ゼミ
文化産業ー大衆欺瞞としての啓蒙
技術支配
支配の構図