一冊の本                   

『自分を活かす思想 社会を生きる思想』ー思考のルールと作法ー

対論 竹田青嗣・橋爪大三郎 径書房 1994

 

人間は個人的存在であると同時に、社会的存在でもある。しかし、現代日本のように物質的豊かさ、便利さに慣れ親しむ生活をしていると、ともすると己個人のことが中心となり、他人の存在が空気のように無機的なものとなってしまう。己の欲望の充足が第一義となりがちとなる。そしてそのような生き方でも誰からも文句はいわれないような希薄な人間関係となっている。生活も多様化し、その背景には思想の多様化が横たわっている。どんな生き方をしようと誰からも文句は言われないような社会風潮となっている。

 

しかし多様化とは容易に混沌へと陥って行く可能性を持っているものである。現代とはそうした不安定な時代である。このような現実に対して、簡明な表現によって警鐘を与えているのが本書である。

 

橋爪は、人間としてどうしても考えなければならないこととして、「大勢の人間がどうやって生きていったらいいのかという問題に集約できるという」厳しい注文を突き付けてくる。人間は一人で生きているわけではない。大勢の人間のなかで生きているわけである。ということは完全にエゴイストとして生きていくことは不可能である。そのような生き方をすれば様々な問題が起きてくる。そういった問題が起こってきたときに誰がどのように解決をしていくか。解決されなければ、憎み合い、殺し合いが始まる。それを未然にふせいで共に生きていくための方法を考えるのが思想の根本であるという。思想というものがそういう役割を担ってこそ本来の役割を果たすことになるという。「哲学や思想は本当はもっと一般の人が享受できる、一般の人が生きるために役立てたり使えたりする、そういうものであるはずです」と明言している。

 

そして自立した市民を基礎とした近代社会というものの基本として「自由を追及するためのルール」が不可欠であるといい、ルールの基本的重要性を説く。現代社会は己の欲望を追及することを許す社会であり、どんどん自由に幸せになっていい。しかしそこにはルールがある。そのルールこそ自由を規制するというものでなく、かえって自由を実現するために必要な制限であることを明快に説明している。

 

取り扱っているテーマは個人の問題から社会、国家、世界へと広がりを見せる。さらに教育、メディア、環境、差別の問題を難解な表現を避け簡明に説いてみせる。そして最後に宗教についても痛烈な言葉を投げかける。

教育の問題については、「根本には人間を見ることと学力を見ることとの根深い混同があるのです。成績が悪いことを、人間的な欠陥のように教師や社会が誤解して、それが本人にも影響し、その結果、本当に落ちこぼれてしまう」と指摘している。

 

宗教については、「宗教は、信者に他の思想を与えない。この思想でいいんだというふうに人々に思い込ませて、選択を本質的に遮断していく。それによって安心を供給するわけですね。・・・これまでの宗教のような統一的な絶対的な世界像はありえないということに、人間は耐えていくほかはないと思う」と言いきる。一般知識層、高等教育を受け知性的に生きんとする多くの若者はこうした見解に賛同するであろう。こうした宗教に対する挑戦的な言葉に対して宗教者はどう反論していくか。

 

あらゆる階層の人々に対し宗教の必要性を説いて行くことが宗教者としての務めであるが、現代は果たしてそうした宗教の側からの挑戦を受容する余地があるのか。確かにオーム等の新新宗教に代表されるように一部の青年層は自ら宗教を求めているが、青年を含めた大半の一般層は宗教組織には拒否反応を潜在的に持っているのが現代ではないだろうか。