人間関係論レポート
理解の問題は古くて新しい問題である。理解をテーマに解釈学という学問領域が形成されていることにも、理解とうことがどれほどの深みをもっているかを示している。何を対象にしても理解することの難しさは横たわっている。対象が人間の場合はますます困難となる。
自己理解をするにしても、他者理解をするにしても、自己中心性による歪みが生まれてくる。仏教においては、無明という表現で、自我に執着する人間の本質を示している。無明というプリズムを通してあらゆるものを歪んで見てしまう。
仏教においてはこの無明を克服するために、実相を見通す智慧を得るための布施を説く。布施とは、我執を克服するために他者に尽くすことを意味している。「他者の役割を取る」ことにつながっていく。他者の立場を理解し、相手の心の中に踏み込んでいって始めて法(仏の教え)を伝え、理解して頂いて、「安心」を得て頂くことができる。
こうした意味では、自己中心性による理解の歪み、理解の偏りを修正するために、他者の役割を取り、踏み込んでいく。そのプロセスにおいて、摩擦、ぶつかり合い、対立が生じてくることがある。他者との深い関わりを持つためにはそれらを超克していかねばならない。こうした経験をもつことができて、成熟したパーソナリティを醸成していくことができる。
現代の若者のなかで、摩擦を避け、表面的な付き合いだけで自分だけの世界を作ろうとする者の数が増加しているという。この傾向は、若者だけでなく、都市社会全体に当てはまるものではないだろうか。住宅が、マンションという建物形式に変化し、生活様式自体が、プライバシーの過保護といっていいほど、近隣の付き合いが絶え孤立化してきている。
わたし自身、49戸の7階建てのマンションに住んでいて、近隣の付き合いは、挨拶とたまに多くのもらい物があるとお裾分けをするぐらいである。実に希薄な人間関係である。これでいいのだろうかという思いが時折湧いてくる。マンションの場合は、管理組合があり、一年に一度は総会があり、毎年交代で理事の役割が回ってくるが、総会に出席する居住者は、約3分の1、理事の役割にしても数ヶ月に一度、形式的な会議で終わり、個人的な付き合いが始まるわけでも無い。基本的な人間関係は、表面的で摩擦を起こさないというものである。こんなマンションが林立しているのが都市である。
こうした居住環境の中で生活していると、人間関係を深めることによる心の豊かさなど味わう余裕は無くなっている。
職場においても、ある役割を担わされており、道具的・手段的存在であることが要請されている。マズローが言う自己実現ということも夢のような話である。仕事を通して自己実現を図っていく職場環境、風土にある組織がどれほどあるというのであろうか。生産性と効率性が第1の評価基準となっており、その上にすげ替え可能な立場に、人生の意味を見出すことができるであろうか。
こうした社会状況が、近代化の名のもとに創りあげられて来てしまっているのであることも事実である。青少年ばかりでなく、大人も、人間関係は表面的で、道具的であり、自己完結的な、パーソンとしてのもので無くなっている。
そういう時代状況だからこそ、カウンセリング、心理療法、社会福祉というものが“流行”してきているのであろうと思われる。ことに最近では、地域福祉が声高に謳われている。還元すれば、地域の共同体を再構築していくことが緊急の課題となっているということがいえるであろう。
その再構築の出発点は自己理解と他者理解からと思われる。それも、他者との深い関わりを広く創りあげていく必要があると思われる。確かに、うまくいかないと辛くなる事がある。また深く広い交流にはエネルギーが必要とされる。宗教の時代といわれるのも、宗教者だけが言っているのかもしれないが、人間関係の見直し、自己完結的な人間関係を基礎に置く地域共同体を創っていく上で宗教の本来の機能が期待されているからであろう。
宗教、中でも仏教は、他者の立場を理解し、相手の心の中に踏み込んでいって、法(仏の教え)を伝え、理解して頂いて、「安心」を得て頂くことが使命である。こうした働き、動きが無ければ、現在の非人間的な社会状況を、ヒューマンな暖かな、道具・手段としてだけでなく、自己完結的な人間関係を基にした地域社会に創りなおしていくことは不可能ではないだろうか。こんなことをいうのは、宗教者の驕りであろうか。